三十分、いやもっと経っただろうか、壁にかかっていたからくり時計から一匹の鳩が飛び出した。午後十二時半である。
いつのまにかテレビの横にいたオーナーが、DVDレコーダーをとめて照明をつけた。
「約束、ですからね。」
そう言って、机の上に広げられているティーカップの数々を次々に片付けはじめた。他の人々は、背伸びをしたり首を左右に振っていたりと何とも気だるそうで、私を含みオーナーの手伝いには消極的だったが、平松さんだけは近くに置いてあった布巾(ふきん)でテーブルを拭いていた。気がつくと、兄貴達にまぎれて中原さんも居たりする。この二人は私達が映画を観ている間に戻って来たのだろう。青野さんと加納さん、真理子さんは相変わらず自室に居るようだ。
父さん達は、いそいそと食堂へ向かっている。その時だった。
うわぁぁぁ―――!!
皆が一斉に声の聞こえた方向へ振り向いた。二階からだ。
「青野さん!?」
オーナーの言葉を聞く前に、私達は我先にと階段を駆け上がっていた。あの独特な声の持ち主は、青野さんだけである。永井夫妻と、悲鳴を聞きつけた須美さんと桜さんは、談話室から心配そうに上を見上げていた。
いち早く部屋の前にたどり着いた良一が、ドアノブを激しく前後に揺さぶる。しかし、固い金属音がするのみだった。
「開かねぇ!!」
「中原さん、鍵は!?」
私はとっさに、ルームメイトである中原さんに尋ねた。中原さんは空(むな)しく首を横に振る。
「こじ開けましょう!」
振り返ると、そこには自室にいたはずの真理子さんが立っていた。彼女の言葉で、周りの男達はドアに向かって体当たりをしはじめた。
数分後、すさまじい勢いでドアが蹴破(けやぶ)られ、どっと室内に人が押し寄せる。と同時に、刃のような風が私達を圧迫(あっぱく)する。思わず目をつぶったが、再度ゆっくりと目を開くとすぐそばに人が倒れているのが見えた。
「青野さん・・・・・・青野さん!!」
私とオーナーはその場に駆(か)け寄る。私はぴくりとも動かない青野さんの手首に親指を当てた。
「大丈夫、脈はあります。」
その言葉に安心したのか、皆から安堵(あんど)のため息がもれた。オーナーも、落ち着いて彼を抱き起こす。しかし、その途端(とたん)に絶句した。
「何だ、こりゃあ!?」
正面を向いた青野さんの顔や体には、五、六ヶ所の刺し傷があったのだ。傷自体はそんなに深くは無いものの、大量の血が切り裂(さ)かれた衣服を朱(しゅ)に染めていた。
「とりあえず応急(おうきゅう)処置(しょち)しなくては・・・・・・、川端、悪いが彼を談話室まで連れて行くのを手伝ってくれないか?」
まだ意識を取り戻していない青野さんを二人が談話室に運んでいった。無論兄貴達も手伝っている。須美さんと桜さんは、運ばれてきた青野さんを心配そうに見守っていた。
「桜、救急箱を持ってきて頂戴(ちょうだい)。大きいやつ、急いで。」
別人のような須美さんの迅速(じんそく)かつ的確(てきかく)な指示を受けて、桜さんはフロントの中に走ってゆく。私は、二階の吹き抜けから一階を見下ろしながら、その様子を観察していた。
「・・・・・・ねぇ、あの高飛車女は?」
真理子さんが隣に佇(たたず)んでいた平松さんに問う。そういえば、さっきから彼女の姿だけが見当たらない。あれだけ厄介事(やっかいごと)が好きそうな彼女なら、てっきり何か起こったときには一番にしゃしゃり出てくると思ったのだが。
「あ、あの、加納先輩はですね・・・・・・どうやら、まだご機嫌が直っていないみたいで・・・・・・。」
彼女は申し訳なさそうに俯(うつむ)く。つまりは、加納さんは私と揉(も)めたあの時からずっと部屋に篭(こも)りっきりという訳だ。少なくとも、私達が確認できる限りでは。
須美さんと桜さんが応急処置を済ませ、しばらく様子を見ていたら、青野さんは目を覚ましたようだ。
「あれ・・・・・・ここは?」
「談話室です、気付いたみたいですね。」
一階に降りていった大学生三人と兄貴達が、談話室のソファーに寝かせていた青野さんの所に集まる。青野さんはそれを見上げながら、ポリポリと頭をかいた。
「いやぁ、本当に殺されるかと思いましたよ。私が、とあるプログラムを打ち込んでいる最中にいきなり窓が割れる音がしたので、びっくりしてそちらを振り向くと、そこにはマントみたいな物を被(かぶ)った大柄(おおがら)なやつが立っていて、いきなり襲いかかってきたんです。顔を殴られて眼鏡(めがね)が飛ばされてしまったのでほとんど犯人は見えませんでした。しかし、とりあえず刃物で襲われていることは理解できたので大声で叫んだのですが、その途端に後ろから殴られてしまって。その後のことは分かりません、面目(めんぼく)ない。」
もう少し状況を整理してから話して欲しかったが、つまりは大柄のマント野郎に刃物で攻撃された、ということだろう。
「大柄の人間、ねぇ・・・・・・。」
私はしばし辺りを見回す。
まず一番上背が高いのが直人兄で、それより拳一個分低い所で直也兄と中原さん、少し下がって良一がいる。この四人はまず間違いなく誰が見ても大柄である。その下が父さん、古本さん、直樹兄で、三人は比較的(ひかくてき)平均な身長の持ち主だが、それでも一七〇センチ以上はあると思われる。年齢のせいか、小柄な永井氏は目線(めせん)が私と同じくらいなのでとても大柄だとは言えないし、それは小太りしている青野さんとて同じである。オーナーは、この二人よりかは幾分か背が高いが、同年の父さんに比べればそれでも十センチ以上の差がある。
「大柄」と言っていたので男性ばかりを挙げてしまったが、「青野さんよりも上背がある」という意味での大柄だとすれば、オーナーと同じくらいだが私よりもかなり背の高い、真理子さんと加納さん、彼女達も十分に当てはまる。
考えてみれば、マントなどという、くそ怪しいアイテムもあったのだから、十センチ程度身長をごまかすくらいならば容易(たやす)いものであろう。
「そうだ、部屋からパソコン取ってこないと。プログラムやハード自体が駄目になっているかもしれない。」
上体を起こして立ち上がろうとする青野さんだが、頭痛がおきたのか、頭をおさえてよろめく。
「まだじっとしておいて下さいな。」
須美さんがたしなめて、もう一度青野さんをソファーに横たわらせる。
「大丈夫じゃないんスか、最近のパソコンの防御システムなら。まさか、PC‐98型の化石のようなもんを使ってんの?」
「・・・・・・いいや。私のはインテルの最新型だよ。」
古本さんの質問に、青野さんは心外そうに答えた。
「あまり力みすぎると傷口が開いちゃいますよぉ?」
深雪さんがさらに追い討ちをかける。青野さんはかなり不機嫌そうだった。どうしてこう、今の若者は話し方というものを知らないのだろうか。
「そういえばあんた、大振りのナイフ持ってたよな?草履(ぞうり)とかなんとかの。」
直也兄が、隣に座っていた中原さんを上から見下ろしつつ言った。談話室に集まっていた面々(めんめん)も、彼に注目を向けている。
「ゾーリンゲン製だよ。・・・・・・いくら青野さんの体に刀傷があったとはいえ、それだけで犯人扱(あつか)いなんかされたらたまったもんじゃない。第一、彼の悲鳴を聞いた時には、僕は君達と一緒に居たじゃないか。」
中原さんは立ち上がって答えた。確かにそれは事実である。
それに、青野さんを襲った凶器(きょうき)もナイフだとは限らない。包丁(ほうちょう)でも、カッターでも、極論(きょくろん)を言ってしまえば鋏(はさみ)のようなものでも構わないのだ。どうせ、直也兄のいつもの考え無しの突発発言である。気にすることではない。
「ああ、壊れていませんように。」
青野さんは、自分の体調よりもパソコンにご執心(しゅうしん)のようだ。全く、あの部屋にいかほどの価値のものを置いてきたのであろうか。
――待てよ、部屋か・・・・・・。
「すいません、ちょっと部屋に行ってきてもいいですか?」
いきなりの頭上からの言葉に、オーナーは私を見上げて首をかしげた。
「別に、自室に行くのに私の許可を取らなくてもいいんだよ、夏美ちゃん。」
「いいえ、私は原田さんと青野さんの部屋に用があるんです。」
「なっ・・・・・・!?」
全員の動作が止まった。皆、私を注意深く見ている。
「私達、今まで事件に振り回されていて、肝心(かんじん)なことを忘れていませんか?いい加減(かげん)な情報であれこれ推理を並べたって、水掛け論(みずかけろん)で終わるだけです。それよりも、冷静になって事件に関係がありそうな場所を調べた方が、何か掴(つか)める可能性はあるのではないでしょうか?」
私の声だけが周りに響く。一通り言い終わった後、良一が真顔(まがお)で尋ねてきた。
「で、一人で行くのか?」
「・・・・・・えっ?」
私が何か口に出す前に、あいつは続けた。
「お前さぁ、そんな事してあの女が黙っていると思う?」
――しまったぁ!!計算外だった!
今、私の脳裏(のうり)では、加納さんが腰に手をあてて高笑いをしている構図(こうず)が鮮明に映(うつ)っていた。
彼女のことである、きっとこの話を聞かせたならすかさず、「あなたが犯人でないという保証はどこにも無いわ!!」とか言って、猛反対(もうはんたい)するに決まっている。
私が目の上の大きなタンコブに本気で頭を悩ませていると、オーナーがルームキーを持って二階に上がってきた。
「桜、夏美ちゃんについて行ってあげなさい。皆さんも、それでよろしいですか?」
誰も口を開かなかった。それを消極的な肯定(こうてい)と受け取ったのか、オーナーは近くまで階段を登っていた桜さんに鍵を渡す。
「それは原田さんの部屋の鍵だ。いいかい、無闇(むやみ)に中にある物を動かしてはいけないよ。」
「はい。」
桜さんは深く頷く。二階に居る私のところまで来ると、きりっと顔を引き締めた。
「行きましょう。」
私達二人はゆっくりと歩き出した。
「夏美、鑑識(かんしき)の手を煩(わずら)わすようなまねだけはするなよ!」
「状況によりけりね。」
直人兄の釘打(くぎう)ちを無難(ぶなん)にかわしつつ、私達は歩みを進めた。
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