それから模試までの数日間、私達は必死だった。

 普段ではあり得ないほどの根性を見せる生徒達に負けないよう、私もありったけのノウハウ、模試対策を彼らに叩き込む。その光景は、傍から見ていた大久保先生曰く、
「入試直前ゼミみたい。」
 と言わしめるほどであった。

 こうして最高の士気の高さで臨んだ駿河社の模試を終えて、屍のごとくグッタリとした生徒達から問題用紙とそれに書いた彼ら自身の解答を受け取った私は、早速自分のデスクで自己採点をはじめた。

 予想以上の出来である。多少加藤の計算ミスが気になったが、特に村上の正答率は普段を知るだけに目を見張るものがあった。これならば大丈夫だろう。

 公式の成績結果が出たら、頑張った褒美にちょっとした祝杯でもあげてやろうかと私は考えていた。



 しかし、現実というものはそんなに甘いものではなかった。



 自己採点をした翌々日、駿河社模試の速報が届いたという知らせを受けて、私は職員センターに急行した。そこで待ち受けていたのは、大きな封筒を抱えて微笑む、『神田塾』のご令嬢こと神田恵美その人であった。



「先日の模試の添削結果を手に入れる事が出来ましたので、持ってきましたの。」



 彼女の笑顔に、思わず私は後ずさる。考えてみれば、何万人も受けている模試の結果が2、3日で出るという事自体が不自然であると気づくべきだった。激烈に嫌な予感がする。

「これはまたご丁寧に・・・というか、どうやって手に入れたんですかその結果。」

 微妙に目線をそらしながら、私は探りをいれてみる。

「お爺様の知り合いに駿河社の代表取締役の方がいらっしゃって、一刻も早く結果を知りたいと便宜を図って頂いたのです。」

 彼女は笑ったまま非常識なことをのたまった。その我侭一つでどれだけの駿河社の社員が残業の犠牲になったのだろうか。

 無言のまま唖然としている私に、彼女はこう切り出した。

「こんな場所で立話もなんですし、こちらの応接室で結果を見てみませんか?あなたの自慢の生徒さんともご一緒に・・・いかがでしょうか?」

 ――明らかに罠くさいな。

 不安を拭いきれない私ではあったが、このお嬢様にNOと言える立場でないことは自分が一番よく分かっていた。不承ながらも、私は頷く。

「・・・わかりました。では、今から生徒達を呼んできます。」

 そう言って職員センターを出た私は、一つため息をつくのであった。



 私の心配をよそに、生徒達は晴れやかな顔で応接室にやってきた。ただ、約一名見当たらないようだが。

「加藤、橘どこに行ったか知ってる?」

「あ、確か『用意するものがある』とかで、後から来るそうです。」

 申し訳なさそうに加藤が報告する。

 ――あいつ、昔の女に会いたくないからバックレたんじゃないだろうな?

 私は心労で胃潰瘍になりそうだったが、何とか持ち直して生徒達と共に応接室の扉を開けた。



「失礼します。生徒達を連れてきました。」

「皆さん御機嫌よう。やはりあなたの生徒らしく、凡人が揃っていらっしゃいますね。」



 もはや憎らしいとさえ思える微笑のまま、神田嬢が私たちを迎え入れた。もし彼女の背後に財力と権力がなかったら、問答無用ではりたおす所である。責任者である小池主任も彼女の背後で殺気を漲らせていたが、幸い世間知らずのお嬢様には気づかれていないようだ。

 一方、開口一番に皮肉られた生徒達も不快感をあらわにする。

『なんやあれ、ごっつムカツクわ。』

 声をひそめながらも、村上は吐き捨てるように言った。

『あれが厄介事の元凶である女狐ね、これだけ性格が悪ければいっそ清清しいわ。』

 長谷川さんが静かに呟く。彼女が放つオーラには禍々しいものがあった。

『・・・それにしてもあの女狐、何の為に私達まで呼び出したのかしら?』



「見せしめに決まってるじゃん。そうだよねぇ?神田のオジョーサマ。」



 一瞬、その場の時が止まった。無謀としか思えない暴言を吐いた当人は、長い髪をかきわけながらも名指しした女性を睨み付ける。

「ちょっと、ちょっと待って。すいませんウチの生徒が・・・」

 とっさにフォローに回る私だが、向こうの言葉に打ち消された。



「あら、どなたかと思ったら橋本先生のお嬢さんじゃないですか。相変わらずその粗暴な性格は直っていらっしゃらないのね。」

「元彼をストーカーする我侭お嬢よかマシだと思うけど?」



 ――橋本、せんせぇ!?

 優ちゃんの歯に衣着せぬ言葉にも驚かされたが、神田嬢と彼女が知り合いだった事実のほうがよっぽど信じられなかった。

「・・・ねぇ橋本、この女の人と知り合い?」

 同じくびっくりしたであろう加藤が、おずおずと質問する。答えは、別の方向から返ってきた。



「本当に無知ですね。あなたたち、弁護士界の救世主とまで言われている橋本先生をご存知ないのですか?」

『マジで!?』



 神田嬢と優ちゃんを除く全員の声が揃った瞬間であった。

 知らない筈はない。弁護士橋本と言えば、『正義の代弁者』としてテレビや週刊誌でもお馴染みの存在である。確か近所に住んでいるとは風の噂で聞いてはいたが、よもや私の教え子の保護者だったとは考えもしなかった。

 橘の家柄もすざましいものがあったが、知名度では優ちゃんの家も負けてはいないだろう。

「アンタっていつも家柄のことだけだよね。バッカじゃないの?オヤジの事なんて関係ないじゃん。」

 不機嫌な表情のまま、優ちゃんは言い放つ。

「・・・どうして聡明な橋本先生から貴女のようなお嬢さんが生まれてくるのかしら。まぁいいわ、本題に入りましょう。これはあなたがたが受けた駿河社の模試の正式結果です。」

 そう言って神田嬢は封筒の中身を机の上に広げた。私はすかさず全部手にとって、中身を確かめる。そして、絶句した。



 ――そんな馬鹿な!?偏差値が下回ってる!?



 あれだけ何度も練習問題を繰り返したにもかかわらず、一番期待していた加藤の偏差値が自己平均値よりも下がっていた。他のメンツもかろうじて下がってはいないものの、その上昇値は微々たるものだ。



 これは、私の予想を大幅に下回った散々たる結果だった。



「どうですか?このような成績では、とても隼人君の最低記録さえ超えられませんよね。」

「ちょっと待って、どうして点数は平均20点も上がっているのに、偏差値は殆ど変わっていないんですか?今回の駿河社の模試問題を見たけれど、例年と変わってなかったはずです!!」

 思わず私は力説していた。どうも腑に落ちない点が多すぎる。

「さぁ?今回は『想定した以上に』ハイレベルだっただけの話だと思いますが。」



「・・・神田さん、貴女やはり『神田塾』を動かしましたね・・・。」



 あくまでとぼける彼女に、今まで口を閉ざしていた主任がぽつりと呟いた。

 ――そうか、そういう事か。

 私たち教師陣は、神田嬢が『神田塾』運営下のハイレベルな学校の生徒達をこの模試に投入していくるという予想は立てていた。だが、どうやら一校や二校ではなく、自分の持つすべての学園の実力ある生徒を使い、偏差値の底上げを狙ったのだ。

 ・・・つくづく、とんでもない女である。

「さて、実力の差もはっきりしましたし、この事はすべて隼人君のご両親に報告して・・・」

 私たちに勝ち誇った神田嬢は、上機嫌のまま席を立とうとする。その時、私達の後ろから応接室の扉が開いた。



「失礼、お久しぶりです。神田先生。」



 神田嬢の動きが止まる。息を切らしながら応接室に入っていたのは、全ての元凶である橘本人だった。

「大変でしたよ。俺の親戚は神田先生の身内と違ってなかなか動いてくれませんでね。さっきようやく自分の成績表を取ってきました。」

 息も絶え絶えだが、その言葉一つ一つの迫力が違う。立ち上がっていた神田嬢は、動くこともできずにその場に立ち尽くしていた。

 橘はおもむろに、抱えていた封筒から書類を取り出す。



「まずは数学の偏差値、85.2。」



 彼は書類に書いてあるであろう数値を順番に読み上げていった。驚くべきことに、どの教科も偏差値80を上回っていた。橘にとってはこれが普通なのかもしれないが、それにしても尋常な数字ではない。

「隼人君!?あなたは別に関係ないのよ。私はここのクラスの実力を知りたかっただけなのだから・・・」

「それなら俺の成績も必要じゃないですか。」

 そう言って、橘はずいっと私たちより前へ進んだ。



「俺はここのクラスメイトですよ。」



 チェックメイトである。今の橘は、どの名簿を見ても私のクラスの生徒になっている筈だ。結果が出た後でいまさら、「橘は例外」などという後だしジャンケンのような真似は彼女のプライドが許さないだろう。

 それでもなお、神田嬢は萎縮しながらも抵抗を試みる。

「しかしあなたは、この女教師に騙されて・・・・・・」

「往生際が悪いですよ。この成績表を見ても俺の両親に報告したければ、すればいい。ただし。」

 そういい終えて、橘はいきなり神田嬢の前まで歩み寄り、彼女のあごを捉えた。



「瀬名先生にこれ以上干渉するなら、アンタを社会的に抹殺しますよ?」



 鋭利な刃物のような鋭い言葉だった。助けられたはずの私まで寒気を覚えるくらいの。

 神田嬢はもう何も言うこともなく、橘から開放されるとそそくさと応接室を出ていった。こうしてはた迷惑な女子大生の復讐劇は、恋焦がれた元彼氏の返り討ちによって幕を下ろしたのである。




数時間後、私たち中級Bクラスのメンツは、いつもの自動販売機コーナーでささやかな祝杯をあげていた。

「それにしてもさー、橘君カッコイイ!男前だったよ!!」

 ペットボトルに入ったレモンティーを片手に、優ちゃんが上機嫌に話す。

「そうね、少しだけ見直したわ。」

「いやぁ、橘ってほんっとオイシイ所持っていきよるなぁ。」

「ありがとう、橘。本当にお前のおかげだよ。」

 クラスメイトの面々も、彼への賛辞を送る。いつのまにか、橘はこのクラスの一部として認められているようだ。

「お疲れ様。大変だったでしょ?あんな状況であれだけの成績取るの。」

 私は自分の飲み物をテーブルに置き、橘の肩をぽんとたたく。自分では激励のつもりだった。

「惚れましたか?」

「それとこれは話が別。てか、いい加減安全な恋愛を選んでくんない?」

 こうして、いつもの攻防戦に話は流れていく。いつもは煩いことこの上ないが、今くらいは許してやってもいいのだが。



「ま、今日はこれくらいにしておきますよ。マスカット味のミックスネクター、ご馳走様。」



 ――マスカット味?そんな新種は入ってなかったような・・・。

 そんな疑問なんぞを浮かべながら、私はふと橘の持つ缶ジュースを凝視した。

「ちょっと待て!!それ、私のミックスネクター!!あ、飲むな!!」

「瀬名っちー、もういいじゃん。付き合っちゃえば?橘君てレベル高いよ?」

「だから、そういう問題じゃないんだってば!!」

 ・・・そういえば、私の愛用しているリップバームはマスカット味だっけか・・・。

 私はいつものごとく頭を抱えながらも、缶ジュースを取り返すべく橘にくってかかりに行った。






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