私は職員センターに戻った途端に、待機していた小池主任といつのまにか帰ってきていた大久保先生に質問責めにされた。

「先生、あのお嬢様に呼び出されたって本当?相手はなんて宣戦布告してきたの?!」

「もしかして、ウチを潰してやるとか言ってないだろうね?」

 二人ともかなり動揺しているらしく、主任に至っては敬語抜きである。私はどう言っていいものか迷ったが、まずはこの騒ぎを鎮めるのが先決だろうと判断した。

「宣戦布告とまではいかなかった気がしますよ。私についての恨み言ばかりでこの予備校については何も言いませんでしたから。」

 あまり刺激しないように言葉を選んだつもりだったが、二人の緊張はまだ取れていないようだ。迷いながらも、私は報告を続ける。



「・・・ただ、神田塾の総力をあげて対応するとか言ってました。」

『やっぱり宣戦布告じゃないか!!』



 私の言葉を聞いて、二人はがっくりと肩を落とす。どうやら事態は私が考えている以上に深刻のようだ。

「『神田塾の総力』って一体どんなものなんですか?」

 私は頭に引っかかっていた疑問を投げかけた。すると、目の前で頭を擡げていた主任が重々しく口を開く。



「言ったでしょう?彼女の実家は大きな学校法人を持っていると。」



 ここで一つ大きなため息を吐き、主任は続ける。

「そこで経営している私立学校がいくつかあるのですが、どれも高レベルの実績を誇っていましてね。国立大学への進学率もすこぶる高いんですよ。」

 すごく嫌な考えが私の頭をよぎった。



「・・・もしかして、その高偏差値学校達が今回の駿河社の模試に参戦してくると?」



 私の言葉に、二人は力なく頷いた。

「今までは『神田塾』の学校連は駿河社の模試を受けてなかったはずなんですがね。こうなると厳しいですよ、戦局は。」

 とんでもない話である。偏差値というものは流動的で相対的評価である以上、成績の高いものが沢山受験すれば自ずと点数の低いものはより偏差値が低く評価されてしまう。これでは偏差値を上げるどころか、成績をキープするだけでも難しい。

 彼女の言葉より推測すれば、私のクラスは調査済みといった所か。だとすれば、恐らくは偏差値60以上をわんさか揃えて模試に望んでくるであろう。

「本当にとんでもない女ね、そこまでして橘君に未練があるのかしら。」

 大久保先生も表情を曇らせた。彼女もあまり人のことは言えないと思うのだが、今はそんなことに突っ込んでいる場合ではない。



 ――この状況をどうやって生徒に伝える?



 私は胸に重いものを持ったまま、生徒達の待つ第二自習室へ向かった。




 足取りもおぼつかないが、とりあえず言うべきことは言わなければならない。私は自習室のドアの前で大きなため息をついた後、戸口に手をかける。



「ねぇー、橘くん。どうして瀬名っちに告ったの?」



 ドアを開けようとした瞬間、優ちゃんの声が私の耳に飛び込んだ。戸口にかけた右手が止まる。

「好きだから。」

 間髪なく橘の声がそう答えた。割り切った大人でもこんなにすっぱりと言い切るのは恥ずかしいのに、何故ヤツは躊躇なくこういう言葉を吐くことができるのだろうか。

「そうじゃないって。優が聞きたいのは、なんで瀬名っちが好きなのかってこと。」

 優ちゃんの質問も容赦がない。もともと遠慮など持ち合わせてはいない彼女ではあるが。



「そうだな、瀬名先生だけが俺を『本当』に視てくれるからかな。」



 多少ざわついていた室内がこの一言で静まる。ただ一人を除いては。

「そーなの?橘くんのこと好きなヒトって多いんでない?視線感じないの?」

「いや別に、そういう意味じゃなくて。」

「じゃあ面倒見いいってこと?瀬名っちって優達とも遊んでくれるよ?」

「橋本、それも違う。」

 優ちゃんと橘の不毛なやりとりが続く。ちなみに、私は生徒と『遊んでいる』つもりはまったくない。



「あの先生は、俺を『特別な目』で視てくれるから。」



 一呼吸おいて、橘がそう告げる。

「橘くんをトクベツに見ているヒトって多いと思うよ。ていうか、普通じゃないし。」

「・・・・・・かもな。ただあのひとは違うんだよ、俺の中で。」

「ふーん。」

 橘の言葉に、いまいち飲み込めていない生返事を彼女は返す。私の立場としては、橘は勿論のこと他の生徒に対しても特別視をしていた覚えはないので、『特別な目』云々は彼の思い違いだとしか考えられないが。



「それよりもっと言いたいことはあるだろ?そっちはとばっちりを受けたわけだから。」



 ワントーン低くなった橘の声が、自習室から聞こえた。ぞっとする程冷淡な響きだった。

「橘・・・!やめろって。」

 弱弱しく制止する加藤の言葉が、無言の室内を通り抜ける。

「・・・確かに、貴方のせいでこうなってしまったのは事実ね。」

「真帆!やめぇな!!」

 今度は村上が長谷川さんを止めに入ったようだ。

 ――まずいな、調和が乱れ出始めたか。

 以前からこうなるかもしれない可能性を危惧していた私は、事態がひどくなる前に今一度ドアノブに手をかけた。



「でも実力不足をクラスメイトに八つ当たりする程、私達は落ちぶれてはいないわよ。」



 私はドアを開ける手を開ける直前でぴたりと止まる。それくらい彼女の言葉には力があった。

「つまりは成績を上げれば済む話なのでしょう?上等だわ。」

「えらいやる気あんなぁ、お前・・・。」

「村上君はやる気がないの?それならば受験なんて止めたほうがいいと思うけれど。」

「誰もそんな事言ってへんがな。まぁ、どうせ成績上げなあかん所やったし。丁度ええわ。」

「そーだよねー。優もそろそろ本気ださなきゃねー。」

 私の予想に反して、生徒達の声色は明るい。

「・・・どうして、俺を責めないんだお前等・・・。」

 困惑しているであろう橘の呟きに、加藤が一つの答えを口に出した。



「クラスメイトだからだよ、橘。」



 その言葉は、私が抱えていた重みを四散させるに十分な効力があった。誰がどう言おうと、私はこのクラスを誇りに思う。

「単純だな、本当に。」

 呆れたような橘の言葉だが、そこに侮蔑の色はない。



 ――さて、私も出来るだけのサポートをしましょうか。



 生徒達の言葉に奮起した私は、これからの対策を頭の中で巡らせながら皆の待つ教室へ足を踏み入れたのであった。






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