そう、この日は私にとって厄日だった。 『泣きっ面に蜂』という諺があるが、この日の私を例えると『泣きっ面を蜂に刺されたあげく治療に硫酸を使い顔中火傷』くらい、酷かったかもしれない。 事のはじまりはとある休日、久しぶりに街へとくりだした時だった。デコレーションされたショップウィンドウを見るたびに、ため息が止まらない。理由はというと――
そんな平凡でささやかな望みを打ち砕いたのは、橘隼人という生徒の存在。 どういう風の吹き回しだか知らないが、彼が私に興味を抱いてしまったのだ。私としても、年頃の青少年の刹那的な幻想に付き合うほどお人好しではなかったので、勿論交際はきっちりと断った。それにも関わらず、彼は私の返事を一蹴したうえ所構わずモーションをかけてくるわ、私に嫉妬した彼の元彼女が予備校に殴り込みに来るわと平和とは程遠い、慌しい日々を過ごしていた。 季節はいつの間にか流れて、梅雨の時期に入っていた。今日はその梅雨の中休みと休暇と運良く重なったので、久々に外出モードで繁華街へ足をのばしたのだ。清潔感のあるシャツに上品なスカーフ、歩くたびにシフォン生地のフレアスカートがさらりと揺れる。今の私の姿は、職場でのTシャツにジーパンの普段着と比べると雲泥の差があった。 ――ふふん、ここまで変われば知り合いには気づかれまい。 化粧室の鏡の前でニヤける私を遠巻きに見ていた奥様連れが、ヒソヒソと話しながら訝しげな様子でこちらを見ていたが、私はあえて意に介さなかった。
どこもかしこもバーゲンなので、入念に値段をチェックしながらアウトレット街を歩いてゆく。昼食を食べるにもいい時間だし、久しぶりにパスタ屋でランチでも……とグルメ名店街へ足を運ぼうとした時に、聞き覚えのある声が私の耳に飛び込んできた。
「私、2時に村上君と待ち合わせしているの。昼食は一人で食べてね。」
「真帆ちゃん付き合い悪いー。少しくらいトモダチに付き合ってくれたっていいじゃん。」 「私にとって、村上君が最優先なの。また次ね。」 「……真帆ちゃんって本当に変わったよね、男出来てから……。」 巷では有名なカトリック系女子学園の制服を着た二人の女子高生は、かしましく話しながらエスカレーターを昇ってゆく。私はその後姿をしっかりと見送ったあと、大きくため息をついた。 実は先ほどの二人、私が予備校で受け持っている生徒達なのである。二人とも違うベクトルで個性の濃いキャラクターなのだが、そんな正反対な二人が連れ立って帰るほど仲がいいとは思わなかった。しかし…… ――よりにもよって、何故この時間帯に生徒がいるわけ?! 本日は日曜日。いくら二週間に一度は全国模試を受ける受験生とはいえ、日曜日の真昼間にショッピングモールに居るのはいかがなものか。 ・・・・・・などとつい職業病で考えてしまうが、今日は休日。私は講師である前に一人の女。私を待っているのは、美味しいパスタと値引きされたアウトレットのバーゲン品。私は生徒のことなどすっきり忘れて、たまの休暇を謳歌することにした。
優雅な昼食を済ませ、バーゲンだアウトレットだと意気込んでいた私が何故このような場所にいるのかというと、お気に入りアーティストのベスト盤を買うためだったりする。前もって予約を入れておいたので、ここをパスするわけにはいかなかった。 私はさっさと用事をすませてバーゲン戦線へ参加するつもりだったので、一目散にレジへと向かう。そして、ある人影を見つけ、迷わずCDコーナーの片隅にしゃがみこんだ。
「へぇ、村上って洋楽好きなんだ。」 「おう。加藤は何も買わへんのか?」 「俺は直接ダウンロードしてる。アイポッド持ってるからね。」
体格も服装も違う男子学生二人が、CDらしきものを手に取りながら雑談を交わしている。私の行動で容易く想像できたとは思うが、勿論彼らも私の受け持つ生徒達である。別に見つかったところで何かあるわけではないが、『講師でない私』を生徒達にさらすことは私にはひどく躊躇われた。 あの二人がCDコーナーを離れる現場を確認して、私はそそくさと用事を済ませる。彼らとは別の出口を選び、少し遠回りになりながらもアウトレット街へ向かった。 そしてバーゲン会場へ向かう途中で、知らない男から声をかけられた。 「お姉さん、学生さんですか?」 そう言って爽やかに笑いかけてくる。後ろ手に握ったビラの束が見えなかった訳ではなかったが、男の容姿が比較的良かったことと、礼儀正しい言動から私は立ち止まって相手をすることにした。 「学生じゃありませんよ、社会人ですから。」 「嘘でしょう?学生さんにしか見えませんよ。」 「お上手言っても、何も出ませんよ?」 「いやいや、お姉さん、本当にお若くていらっしゃる。」 ワイルド系イケメンの外見とは裏腹に、営業の鏡というか物腰の低い男だった。そういえば、私の仕事の上司にあたる小池主任と相通ずる雰囲気がある。 その男とは2,3分立ち話をしていたが、話題がだんだん怪しくなってきた。
「いえ、私は遠い田舎から出てきたばかりなんであんまり何も知らないんですよ。」 「そうですか。僕も地元民じゃないんですが、ここに住んで長くって。もしよろしければ、どこかゆっくり出来る所でお話なんてどうですか?」 ――ちょっと待て、これってもしかして・・・・・・ナンパ? 私は心の中でガッツポーズをしながら、慎重に言葉を選ぶ。もう後ろに隠されたチラシの存在など眼中にはない。 「でも、お仕事中じゃないんですか?書類が・・・・・・」 「ああ、これは関係ありませんよ。大丈夫ですから。」 「そうですか。ではお言葉に甘えて。」 私はしてやったりとナンパ誘導成功の余韻に浸りながら、男の後ろについていこうとした。 その時、いきなり背後から腕を引っ張られる。私はバランスを崩し、後ろのモノへ寄りかかる形となってしまった。
「すいません、これ私の職場の生徒でして。」 私は間髪いれずフォローを返す。 「生徒?」 それでも怪訝そうな表情をするイケメン君。 「ええ、生徒といっても実際の教職とは違って……そう!託児所のようなものなんですよ。そこの生徒がどうやら過剰反応してしまったみたいで、すぐ……」 「さて参りましょうか、先生。」 尚も言い訳をしようとする私を『彼』は力ずくで引き寄せた。そのまま掴んだ私の腕を自分の腕に巻きつける。
「嘘つけぇ、橘ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
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