生徒たちの騒ぎが収まりかけた頃を見計らって、私はわざと音が出るように書類を机に叩きつけた。5名のクラスメイトの愚痴がぴたりと止まる。

「とにかく、ここで文句を言っても仕方がない。これから模試対策に移るわ。」

 真剣な眼差しで生徒たちを見据える。

「まずは目標偏差値の配分ね。」

 プリントアウトした模試の成績表に目を通しながら、私は続けた。

「現在のところ、うちのクラスでは加藤の平均偏差値58.5がトップ、続いて長谷川さんが57.2、優ちゃんが54.8、村上が52.6。それぞれ平均を3から4上げれば、前の橘が取った数値58.3を超えるのは不可能じゃない。実際に加藤は超えてるし。」

 安全圏として目標を偏差値59に設定しての計算である。決して皮算用ではない。



「先生、ちょっと待ちいな。こっちには橘がいるんやろ?」



 村上が手を挙げて質問を返してきた。

「よう考えてみたら、橘がいつもみたく75以上を取れば今まで通り俺らの成績でも楽に平均58は越えるんちゃう?」

 村上にしては気の利いた意見である。だが甘い。

「相手は元橘の家庭教師よ。もちろん今までの成績だって認識済みでしょう。後で『橘君の成績は入れないで』なんて注文つけられたら、どうにもならなくなるからね。」

「そんなん向こうの勝手やん。今は橘かて、うちらのクラスメイトやし。」

 確かに正当な主張である。しかし、そんな正道が通る常識人ならこちらとて苦労はしない。

 さて、今置かれている状況をどこまで話していいものか・・・。



「村上、相手は金と権力を持った自己愛性人格障害者だ。どんな無理でもゴリ押しする可能性は十分にある。」



 私が考えあぐねている間に助け舟を出してくれたのは、意外にも橘本人だった。

「は?えーと、『自己愛性人格障害者』って何や・・・?」

「村上君。先月の小論文のテーマを忘れたの?『心理における境界例と自己愛の障害からの回復について』だったかしら。同じ小論文模試を受けたはずだけど。」

 話の隙を突くかのように長谷川さんが言葉を挟む。だが橘と彼女を除く他のメンツには意味が分からないらしく、首をかしげている。実を言うと私もおぼろげな知識しか持っていなかった。

「自己愛性人格障害というのは、自己愛が肥大化して自分に対する誇大感を持つようになる事なの。」

 言葉が堅苦しいせいか、いまいちピンとこない説明である。彼女は少し間をあけた後、ある生徒に視線を移して口を開いた。



「そうね、簡単に言ってしまえば橘君みたいな人のことよ。」

『なるほど!!』



 竹を割ったような清清しい回答に、私を含め思わずみんな納得の言葉を口にしていた。

「お前ら、俺のことをどう思っているんだ・・・」

「自己愛性人格障害者なんじゃない?さっき皆納得してたでしょ。」

 私は橘の抗議をたたみかけて、話を本題に戻す。

「まぁそういう訳で、みんなには頑張ってもらわなければならないの。成績が上がるのは決して悪いことじゃないし、最終的には自分の力になるから損にはならないはずよ。加藤や長谷川さんあたりには偏差値60を超えてもらわないと困るので、そこのところ宜しく。幸いにも、駿河社の模試は点が取りやすいから大丈夫だって。」

 生徒たちは承服しかねるような様子ながらも、とりたてて文句はもう出ないようだ。加藤あたりはかなり渋い顔をしていたが、そこは敢えて見なかったことにした。

 私としてもこんなスパルタ式の指導は不本意極まりないが、予備校の存続と私の給料がかかっている以上はしかたの無い選択なのである。少し胃が痛い。



「・・・それにしても、私と村上君の愛の楽園が見知らぬ女狐に蹂躙されるかと思うと、腹立たしい話よね。」

「ちょっと黙って、そこのバカップル。」



 心に余裕がないせいか、速攻で長谷川さんに突っ込む私であった。念のために言っておくが嫉妬などではない、いや本当に。

 彼女――長谷川さんと村上が彼氏彼女の間柄であるのは、このクラス内ではわりとポピュラーだった。どう見ても性格が正反対の二人だが仲は睦まじく、けれどもそのなりそめは今でも謎のままである。以前冗談まじりで聞こうとしたら、長谷川さんのバカップル自慢を休憩時間中話されて、それ以降触れるのは止めることにしていた。

 不気味な沈黙がしばらく続いたが、校内放送のチャイムによってその雰囲気は破られた。



『瀬名依子先生、お客様がお見えです。至急職員センターまでお戻りください。繰り返します。瀬名依子先生、・・・』



 確か今は通常講義中のはずである。その時間帯に校内放送で講師を呼び出すことはめったにないのだが、『至急』という言葉が私の中で引っかかった。嫌な予感がする。

「あー、呼び出しかかったんでちょっと戻るわ。皆はサボることなく自習しておくこと。」

 教材を持ち直しながら私はそう告げて、職員センターまで急ぐ。階段を駆け下りてセンターに戻ると、小池主任が私の席の前で待ち構えていた。

「すいません主任、私へのお客様って・・・やはり、あの人ですか?」

「その人です。先ほどまたこちらにおいでになってね、瀬名先生に伝えることがあるんだそうですよ。」

 予感が的中してしまった。いい加減主任もうんざりしているようだが、私は正直逃げたい気分である。

「この場でばっくれるという提案は却下ですかね?」

「却下です。早く客人と面会して、とっとと帰ってもらってください。」

 一番の被害者は私なのではないかという疑問も浮かんできたが、二次災害をこれ以上広げないためにも、私は意を決して応接室まで足を進めた。

 その部屋には、やはり例の女子大生が足組みをしながら座っていた。彼女は私に気づくと立ち上がり、長い髪をかきわけて私を睨み付ける。



「先ほど隼人君からメールを頂きました。」



 私は少し顔を強張らせてしまったが、彼女は意に介さない。

「自分の生徒を使って私に脅しをかけるなんて、卑怯な手口ですね。それとも、敗北を認めたくないための言い訳かしら。どちらにしても、私は諦めるつもりはありませんから。」

 ――余計な事はするな、橘よ。

 橘のメールがどのような内容なのかは知るところではないが、彼女の血圧を上げるには十分のようである。見当違いもいいところだが、誤解を解く気力など私には戻っていなかった。



「こちらとしても、『神田塾』の総力をあげて対応させてもらいます。」



 ――総力?

 『神田塾』についてよく知らない私は彼女の言葉の意味を計りかねていたが、不気味な響きに寒気がした。

「今までのような成績が取れるなんて思わないことですね。あなたのような講師を許しておくわけにはいきませんから。」

 彼女はそれだけ言い放って、応接室を後にした。とんでもない言いがかりだが、彼女の目が本気だったことが何よりも怖かった。

 あんなに粘着質にされたら、いくら美人でも橘が振るのも分かる気がしてくる。とりあえず私は事情を確認するために、職員センターに戻ることにした。






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