その後、自慢であろう顔がどうとか橘はほざいていたが、私はすべて無視することにした。この騒ぎの元凶を作り出した奴の発言権は認めるつもりはない。

 さて、どうしたものか。これから私の受け持つ生徒全員にこの事実を伝えなければならない。私が理不尽だと感じたと同様、彼らも同じ気持ちになるだろう。これをどうなだめるかが当初の課題であった。



ガタンッ



 相変わらず橘の横でしゃがみこみ思案している最中、出口付近から物音が聞こえた。私は、音がした方向に注意深く耳を傾ける。



『ねーねー、さっきの何?やっぱ痴話喧嘩ってヤツ?』

『その割には随分と色気のない様子なんだけれど・・・』

『おわっ、橋本、力入れすぎや。そんなに体重かけよると、下の加藤が潰れるで!』

『・・・村上、声大きいよ。バレるって。』



 ばれるも何も、丸聞こえである。だがこれで、厄介事が一つ減ったようだ。隣にいる橘も事情を察知したらしく、文句を並べていた口を閉じる。

 私は立ち上がり、視界からそれるよう迂回して出来るだけ足音をたてないように入り口のドア中央まで近づく。そして間髪いれず、引き戸を最大まで一気に開けた。



 思った通り、引き戸からは支えを失った生徒たちがどっと入り込んできた。



 勿論見覚えのある生徒たちである。男子生徒に至っては転んだ上に女子達の踏み台にされていたが、あえて突っ込みは入れなかった。

「あ、あはは。こんちわ〜先生、なーんて・・・・・・。」

 目が合って気まずさを感じたのか、橋本こと優ちゃんの言葉は語尾が小さくなってゆく。

「盗み聞きとは、またずいぶん奥ゆかしい事やんのねぇ。」

 わざと愛想の良い笑顔を作り、目の前の4人の生徒たちに向かって言葉をかけてやった。状況を把握しきれてなかった男子たちも、私の顔を見て表情を凍りつかせる。

「げっ。・・・と、わざとじゃないねんて!俺らそろそろ授業やから教室は入ろうとしたら、先生と橘が話してて、邪魔しとうないから様子みててん。・・・なぁ、加藤?」

「え、そこで俺に話振ってくるの?!最初に面白がっていたのは橋本じゃんか。」

「変なこと言わないでよね!真帆ちゃんもデバガメに乗り気だったんだから!!優だけじゃないもん!!」

「・・・橋本さん、それフォローになってないわよ・・・。」

 立ち聞きしていた男女4名は、お互いに責任転嫁しながら面白いほどにペラペラと事情を話してくれる。おかげで大体のことは飲み込めた。

「まぁいいわ、とりあえず中に入って。これから大切な事を話さないといけないから。」

 私は手で中に入るようにと指示を送り、彼らを教室の中に引き入れた。生徒達はめいめい自分のお気に入りの席につく。



 そう、彼らも私の受け持つ中級Bクラスの生徒達なのだった。



 騒々しくなった教室内が落ち着くまで5分少々を要し、静かになったところで教壇に立った私は話をはじめる。

「まずはどこまで聞いていたのかよね・・・長谷川さん、事情は分かった?」

 私はまず、一番冷静そうな生徒を指名した。肩につくかつかないか位である黒髪のショートボブが印象的な知的少女は、眼鏡のズレを直しつつその場に起立した。

「確か、橘君の元家庭教師の女子大生がここに文句言ってきてゴネたって話だったかと思います。」

 彼女らしい、実に的確な答えである。私は鷹揚に頷いた。

「そのとーり。ただその後が問題でね、私たちにものごっつい災難が降りかかっているわけだけれども、その災難について説明しないといけないんだわ。」

 そう言って私はため息を漏らす。正直、その先は考えたくはなかった。

「先生、災難ってどんなことですか?」

 不安そうに加藤が聞いてくる。この、何の罪もない生徒達を見ていると心が痛んだ。



「一週間後、ここで行われる予定の駿河社の全国模試で、クラス全員が前回橘の取った成績を上回らないと、橘の親にここの現状とやらを報告するそうよ。」

「ええっーーーーーーーーーーー!?」



 一番強く反応したのは、意外にも比較的安全圏にいるはずの加藤だった。

「先生、本当に『橘の親』に報告すると、そう言ったんですか!?」

 いきなり席を立ち、前のめりになりながら私に詰問してくる。

「ええ、確かにそう言ったはず。」

「マズイですよ!!それだけは絶対に回避しないと!!」

 いつもは大人しく礼儀正しい加藤の、驚くべき豹変だった。思わず私は質問し返した。

「何がそんなにマズイの?」

 真剣な表情のまま、加藤はとんでもない言葉を口にした。



「橘の家は、父親が与党の国会議員で母親の実家は有名な実業家なんですよ!!」

「でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」



 橘と加藤以外の全員が今度は驚く番だった。今まで、この予備校内での橘は自身の存在自体がカリスマであったので、誰も家柄など気にもかけていなかったのだ。そりゃあ並の家ではこんなにハイスペックな息子などそうそう生まれるものではないが、まさかこんなご立派な血統とは予想だにしなかった。

 その橘当人はきまりが悪そうに顔を歪ませ、ため息をついた後俯いたまま口を開いた。



「・・・出来れば知られたくなかったんだけどな。まぁこんな状況ならしょうがない。ウチは『神田塾』とのコネもあるし、下手にチクられると親父が本気で潰しにかかってくるかもしれない。・・・・・・悪い。」



 橘の口から謝罪の言葉が出てくるとは思わなかった。橘の変化に同情した生徒達は、そのまま押し黙ってしまう。

 しばらく沈黙が続いたが、この状況が我慢できなくなった楽天家の村上がふいに立ち上がった。

「なぁ先生、こんな辛気臭うしててもしょうがない。橘も一種の被害者みたいやし、大体、なんでそんな胡散臭い女がいきなり文句なんか言いに来たんや?もう関係ないんやろ?」

 ――話を聞いていなかったのか、村上よ。

 どうやら橘以外の生徒達は、事情をすべて飲み込めたわけではないらしい。私は少し間を置いて、現実というものを教えることにした。



「彼女としては、自分が急に橘と別れる羽目になったのは、この予備校のせいだと思っているみたいね。」

『痴情のもつれかよっ!!』



 同情など吹っ飛んだ生徒達の怒りの矛先は、ダイレクトに橘に向けられた。身から出た錆とはいえこのまま放っておくわけにはいかず、私は一週間後の模試対策を頭の中で巡らせながらこの光景を傍観していた。






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