「もう聞いて先生！！泣きたい、私・・・」

　出勤して第一声に聞いたのは、私に泣きついてきた大久保先生の悲鳴だった。私は意味も分からず、とりあえず彼女をなだめて各々の席に座らせた。

「・・・で、何でしたっけ？泣きたい理由というのは。」

「そう、そうよ！！聞いて先生！！私、ショックで死にそうよぅ！！」

　そう剣幕にまくしたてる彼女を見ていると、本当に死を迎えようとしている方々に失礼なのではないかと私は感じた。

「悠長に構えている場合じゃないのぉ！！大変なのよぅ！！」

「ですから、大久保先生。どう大変なのか言ってくれないと・・・」

　いい加減頭痛がしてきた。私がどうにかしてこのパニック状態の先輩を静めようかと考えていた所に、今度は小池主任が職員センターに怒鳴り込んできた。

「大久保先生、瀬名先生！！これはどういう事ですか！？」

　どういう事なのか聞きたいのはこっちである。大久保先生に泣きつかれて困っている私を見つけると、主任はずかずかと私のデスクまで歩み寄った。

「瀬名先生！！仕事に私情は挟むなと、あれほど俺が釘を打っておいたじゃないですか！！」

　あのフェミニストな主任が私に掴みかからんとする勢いである。

「仕事に私情なんて、大久保先生はともかく私がする訳ないじゃないですか？！」

「・・・瀬名先生、何気に酷い・・・」

「出勤してきた途端に、職場の先輩に泣きつかれたり上司に怒鳴られたりする方がよっぽど酷いですよ！！一体何なんですか！？」

「橘（君）の成績が落ちたんだ（のよ）！！」

　二人の先生の叫びが綺麗に重なってこだまする。職員センターに居るほかの講師達も色めきはじめていた。

「橘君だって人間なんですから、成績落ちるくらいは当然じゃないですか。寧ろあれだけ成績優秀だと、落ちないほうが不思議で・・・」

「瀬名先生は何にも分かってない！！」

　突然大久保先生が、椅子から立ち上がって私を指差した。

「橘君はね、今回の全国模試で『全国平均並』に成績が落ちたのよ！！」

その言葉の直後、今度こそ私は氷水ぶっかけられたかの如くその場にしばし硬直した。

　数十分後――

　私は一目散に第二自習室に向かっていた。今日は誰も使う予定のない場所だが、私の目算が正しければ、奴はそこに居るはずだ。

「橘ぁ！！！」

　私は扉を開けるなりそう叫んだ。ここで誰もいなかったらかなり虚しいが、今の私は理性の枠をとっくに踏み外していた。予想通り、ここ一ヶ月ちょっとこの部屋の常連客となっていた少年は、私の勢いに目を見開いて一瞬驚いたがすぐにいつものポーカーフェイスに戻った。

　――可愛くない。

「何でしょう？その様子だと全国模試の結果が出たみたいですね。俺、どれくらい落ちてました？」

「どういうツラ下げてそういう事言えるんだか。・・・いい？これから私の問いに正直に答えて頂戴。」

「構いませんよ、どうぞ。」

　私は呼吸を整え、この少年を尋問にかかった。

「・・・まず今回の模試、自分ではいくら位点取れていると思う？」

「詳しい事は見ていないので分かりませんが、恐らく平均偏差値は58.3くらいかと。自己採点からの逆算だから曖昧ではありますけれど。」

「そう・・・じゃあ次。君の今までの総合平均偏差値はいくつ？」

「そうですね、現役の時のをあわせても大体78.97だと記憶しています。」

「・・・・・・。じゃあどうして、平均偏差値が20以上も落ちたんだろうね？」

　質問の内容が明らかに嫌味以外の何物でもなかったが、彼の答えは私の予想を軽く吹っ飛ばすものであった。

「そんなの決まってるじゃないですか、狙ったんですよ。『全国平均値』。ちょっと高くなったけれども。」

「ふざけんなコラァ！！」

　私は思わず橘のむなぐらを掴んでいた。見る人によっては生徒虐待に見えなくもなかったが、幸いこの教室には私達二人しか居なかった。

「なんでそんな無意味な事したの！？こんな成績取ってたら志望校のアンドルフ医大は論外としても、普通の医学部にだって行けないじゃないか！！」

　自分なりに努力した結果、全国平均値くらいの偏差値を取る生徒は沢山いる。そんな子達ならば頑張ったと労うことも出来ようが、彼のやった行為は明らかに真面目に試験を受けた人達に対する侮辱である。どんな心境の変化があったのかは知らないが、決して許される事ではない。

「・・・無意味？違いますよ、俺が意味もなく自分の価値を落とすような人間だと思いますか？」

「じゃあどんな意味があると言うの？！さぞかし大事な意味なんでしょうね？！」

「ええ、これで今度のクラス分けで先生のクラスに入れますからね。」

　――なんだそりゃ！？

「・・・もしかして、理由って、それだけ・・・？」

「言ったはずですよ、俺は欲しい者の為なら手段は選ばないと。」

「ちょっと待って、それじゃあアンドルフ医大の方はどうするのさ？！」

「勿論志望校は変えません。次に成績を元々より上げればいい話です。」

　言っている事が無茶苦茶である。成績なんてそう簡単に操作できるものでもないし、普通の人間は現状維持だけでも必死なのだ。本当に、何を考えているのか理解に苦しむ。

「では瀬名先生、今後ともよろしくお願いしますね。」

　彼は何時の間にか私の束縛から逃れ、やんわりと私の手を払いながら耳元で囁いた。一瞬の隙を突かれた私は、その声色の艶っぽさに思わず立つ力を失いその場にへたり込む。

　運命の糸車は動き出した。色も素材も違う二つの糸は、様々な模様を織り成してゆくのだろう。本人達の意図とは関係なく。

　丁度３時限目終了のチャイムが鳴った。私はこれ以降、奇天烈な彼によって自分の人生が大きく軌道修正されていく事実を目の当たりにするのだが、この時はまだそんな事は考える余裕なんてなかった。