今期の春に新しく個人指導部に赴任した私こと瀬名依子は、予備校BCGスクールの職員センターでそれなりに和やかな日々を過ごしていた。自分の指導するクラスの、ある男子生徒の存在以外は。



 橘隼人――彼こそが、私の最大の弱点であり悩みの種である。



 この生徒は成績優秀・容姿端麗・品行方正で通っていて、いわばこの予備校のエースのようなカリスマ的存在だ。無論そんな上っ面が真実なら私にとって「とっても良い生徒」で済んでいる話なのだが、化けの皮を一枚めくれば世の女を弄ぶ腹黒い伊達男だった。

 まぁ、まだこれでも「困ったな」位の感想で終わるのだが、そんな生徒からいきなり交際を申し込まれ、全力で断った結果、橘少年は実力行使で平均偏差値を20以上も下げて私の担当する個人クラスに入るという理解不能なことをしでかした。

 ちなみに私も、別の中級クラスに彼を入れるよう上司に働きかけてみたのだが、自分の不祥事は自分で責任を取るようにという理不尽な理由により却下されてしまった。

 それでもここ数日は橘の奇行に悩まされる事もなく、比較的穏やかに過ごしていたのだが・・・・・・。



 災害というものは、忘れた頃にやってくるものだという事実を私は思い知った。




 桜も散り並木の緑がまぶしくなってきた初夏の頃、いつものように職員センターで講義の準備に追われていた私は、友人であり頼れる先輩でもある大久保先生に声をかけられた。

「ごめん、先生。リップクリーム持ってない?どうやら私、どっかに忘れたらしくて・・・。」

 肩先にかかった髪をすくい上げる仕草も愛らしく、男性の保護欲をそそるのも無理はない。つい最近彼氏――ぶっちゃげた話あの橘なのだが、彼と別れた大久保先生は、またもや男子生徒の羨望の眼差しを受けるようになっていた。

「リップバームなら持ってますよ。ちょっと指が汚れるかもしれないけど。」

「大丈夫〜ありがとっ。」

 私は机の引き出しから、ガラス瓶の小さな容器を取り出して渡した。彼女はリップバームを指でひとすくいして唇に重ねる。



「わぁ、これ美味しい匂いがするね。」

「マスカットフレーバーなんです。毎日使うものだから付けて楽しいものがいいと思って。」



 そう言って私は、自分の唇を指差した。私の唇は荒れやすいので、いつもこのジャー型リップバームを愛用している。大久保先生から返してもらった小さな相棒を引き出しに仕舞い込み、再び私は作業に戻った。

「そういえば橘君、そちらでも上手くやってますか?」

 小テストを採点しつつ、大久保先生が質問してくる。

「上手くかどうかは分かりませんが・・・とりあえす大人しく授業受けてます。最近は少しクラスメイト達と馴染んできたかな。」

 書類を整理しつつ、私は答えた。

「うわー、あの橘君が馴染んでいるですか?すごいわぁ、あの子なんだか自分と他人の間に壁を作っちゃってるから、孤立しているか心配だったんだけれど。」

「うちのクラスメイトはちょっと特殊ですからね。それに、同じ学校出身の加藤もいるし。」

「・・・確かに、先生のクラスってちょっと個性的だよね。」

「すいません先生、それって褒めていただいているんでしょうか・・・?」

 私たちがいつものように世間話に興じていたとき、青い顔をした小池主任が急ぎ足で私たちに近づいてきた。そこにいつもの軽そうな笑みはない。



「・・・ごめん先生たち、ちょっと応接室まで来てくれる?」



 ――?

 応接室とは、この予備校にとって客間のようなものである。その応接室に呼ばれるという事は、私たちに来客があるのだろう。指名された講師二人は、お互いに顔を見合わせつつ首をひねった。

「私たちに共通のお客様ですか?」

「そう、二人とも。とりあえずついてきて。」

 主任にせかされて、私と大久保先生は応接室へと向かう。この部屋は、職員センターのすぐ右隣、扉を隔てた先に位置していた。

「失礼します。」

 私たちは数回ノックした後、部屋の中に入る。少し高級なソファーの上に大学生風の、上品な雰囲気の女性が腰掛けていた。

「お待たせしてすいません。彼女達がその講師になります。」

 主任は女性の向かい側に座りながら説明する。女性の顔を見る限りでは主任の好みそうな涼やかな美人だったが、とてもそんなことに気をかけている余裕はなさそうだった。

 ――あの主任が笑顔を見せないとは、一体どんな客なんだろう?

 私の頭にふとそういう言葉が浮かんだが、とりあえず挨拶が先である。

「失礼致します、私は個人中級Bクラス担任の瀬名ともうし・・・」

「そんな形式的な挨拶なんて要りません。」

 私の自己紹介は、相手の非常識な妨害によって遮られた。



「あなたたちですね!?隼人君をたぶらかす不遜な女講師というのは!!」



 ――はぁ!?

 相手はふいに立ち上がって、私たちを交互に睨み付けた。思わすびくりと肩を震わせる。



「私は橘隼人君の家庭教師をしている、神田恵美といいます。」



 日本人形のような佇まいをしているが、眼には闘志をみなぎらせていた。



 ――橘の、家庭教師だって?



「隼人君、ここ2ヶ月くらい私の授業をキャンセルする事が多くなって、心配していたら先日の模試であんな成績を取ってしまう有様・・・。お家の方に連絡を取ったら、この予備校に入り浸っていたというじゃありませんか!!あなた方は何を教えているのですか?!そもそも・・・」



 神田という女性は、険悪な表情でまくし立てる。一方私たちは半ばうんざりした顔で彼女の苦情を聞き流していた。

 少し考えれば理解できることだった。橘のしでかした事情を加味すれば、何も知らない人間からしたら「予備校で何かあった」と思うのが妥当だろう。本当は、本人が自分の意思でやったことなのだが・・・。

 正直、とてつもなく濡れ衣な上にはた迷惑な話である。だがやはり言い訳して余計な事情を詮索される危険性を考えれば、謝り倒すしかない。これも、私たちの仕事である。

「すいません、わたくしどもが至りませんで・・・今後はこのような事が起こらないよう、順次指導してまいりますので。」

 私は深々と頭を下げた。大抵の保護者はこれで、一通り文句を言ったあと自己満足して帰ってゆく。しかし。



「そんな言葉に騙されると思いますか?馬鹿にしないでください!一週間後、ここで駿河社の全国模試がありますから、そこであなた方のクラス全員の実力を見せてもらいます。」



 ――なんですと!?



「少なくとも、隼人君のあの最低な偏差値くらいクリアできますよね?クリアできなかった場合は、この予備校の実態を隼人君のご家族にも報告させてもらいますから!!」



 神田先生は、一通り言い終わったあと、くるりと向きを変えて主任の制止も聞かず応接室を出て行った。私たち3人だけあまりの急展開についていけず、ただその場に立ち尽くしていた。








NEXT