その日の夕暮れ時、私はジュースの自動販売機コーナーの一角でため息をついていた。ジュース片手では深刻そうには見えないだろうが、これが思った以上に厄介事を抱えているのである。殆ど名前しか知らない生徒から告白され、散々断ったにも関わらず向こうは諦める気配を微塵も見せない。しかも、相手はモテ系の優等生と来たもんだ。



 ――ありえない。絶対、ありえない。



   悪い夢でも見ている気分だった。もし私がここの生徒と同じような立場であったなら、狂喜乱舞までは行かなくともかなり本気で考えたであろう。しかし私は齢25の年増女、クリスマスケーキで例えたら路上で半額バーゲンで売られている年頃なのである。

 その上、私は講師であり生徒との恋愛なんざ論外。この歳でそんな危ない橋を渡るのは御免被りたい。安定した人生を求めるのは、そんなに罪悪なのであろうか。

「どうしたんです?随分落ち込んでいるようですけど。」

 人通りの少ない時間帯を選んだはずだったが、突然後ろから言葉をかけられた。聞き覚えのある声だが、正直今は会いたくない人のものだった。

「な、なんでもないですよ。少し疲れただけです。」

 私はくるりと向きなおし、力のない愛想笑いをする。目の前に居たのはやはり、大久保先生だった。

「へー、『元気だけがとりえです』って豪語していた瀬名先生がですか?」

 彼女の言葉に棘を感じるのは、私の気のせいだろうか。

「確かに人間健康が資本ですが、私だって疲れますよ。現代人ですもん。」

 私はどうにかこの場を誤魔化すために意味のない世間話を繰り返す。大久保先生はというと、私の話を聞いているのかいないのか、さっさと自動販売機で缶ジュースを買っていた。



「そんなに困るような事なんですか?橘君の告白って。」



 ブッ

 唐突な大久保先生の質問攻撃に、思わず私は口にしていたトマトジュースを噴出した。ほんの少しの量だったので、どこかを汚すまでには至らなかったが。

「知らないと思ってました?ダメですよ、講師の情報網を甘く見ちゃあ。」

 彼女は得意げに人差し指を振ってみせる。――恐るべし、職場の噂包囲網。

 私はゲホゲホと咳き込みながらも呼吸を整える。一方、彼女の方は黙って自分の買ったミルクティーに口をつけた。暫く重い沈黙が、ドリンクコーナーにたちこめた。



「・・・本当はね、瀬名先生を嫌いになろうとしたんです、私。」



 しばらくして大久保先生の方から口を開いた。嫌われた覚えの全くない私は、驚いたまま彼女をながめる。

「でも出来なかった、だって先生いいひとなんだもの。ホント、5秒で決心が崩れましたよ。馬鹿みたいですよね、瀬名先生は本来なら関係ないなんて少しまともに考えれば分かるはずなのに。」

 私と目を合わせるのが気まずいのか、俯いたまま彼女は話す。『私がいいひと』云々のくだりは買い被り過ぎの感が否めないが、それでも一人の良き先輩であり、また大切な友を失わずに済んだことが、私にとっても幸運だった。

「・・・私も大久保先生みたいな、優しくて優秀な人に嫌われなくて良かったです。女の友情は血よりも濃くて男より薄いですからね。」

「あははは、上手い事言いますね。」

 彼女は冗談として受け取っているが、この言葉は私の実際体験に基づいたものである。これだから女の恋愛沙汰は本気で怖い。

「先生、コレ私の奢り。友情再開の祝杯をあげましょう!」

 そう言って大久保先生は余った手からもう一つ缶ジュースを取り出した。

「すいません、先生。気持ちは嬉しいのですが私、自前のトマ汁がまだ・・・」

「大丈夫ですよ、先生ミックスネクターも好きだったでしょう?」

「そりゃ好きですけど、トマトジュースの後にネクターはちょっと。」

 丁重にお断りしていたのだが、結局私は押し切られて缶ジュースを受け取ってしまった。



「では、・・・瀬名先生と橘君の門出に乾杯!!」

「貴女やっぱり根に持っているでしょう!?」



 こうして、二人の女講師の間で誠に不本意な祝杯は交わされたのであった。



 次の日の夕方前、私はまた第二自主室に向かっていた。今日は私の担当する、中級Bクラスの数学の講義があるのだ。中級クラスというのは、私達講師の間では『中堅クラス』と呼ばれており、大体偏差値50〜60くらいの生徒が対象となる。その中でもさらにAクラス、Bクラス、Cクラスと分かれており、この分別は殆どアトランダムだ。

 ここまでクラスを細かく分ける理由は、我が子を特に手間をかけて看て欲しいという保護者の要望が大きいからだった。これにより結局予備校側は少人数制にせざるを得なくなり、講師総当りでクラス担任となった。入ったばかりの私が担当クラスを持つに至ったのはこういう事情も加味してのことである。

 話がそれてしまったが、私は一昨日の二の舞を踏まない為一応部屋の中をうかがった。案の定というべきか、橘少年ともう一人の男子生徒が部屋の中で雑談をしているようであった。もう一人の生徒には見覚えがある。加藤剛という、私の担当している生徒の一人だ。二人は知り合いだったのだろうか。

「聞いたよ。橘が瀬名先生に告ってフラれたって。」

「ほほう、早いな。どこから?」

「普通の噂話。この予備校でお前の事知らない奴はモグリだし、面白いネタはすぐに人の話のタネになる。」

「どいつも暇だな、暇なら勉強しろって言いたいね。」

「・・・言い返せない所が自分としては情けないな・・・。」

 二人は菓子パンを頬張りながら、どうでもいい話に興じている。私としても、あの二人に世間話する程暇ならば勉強しろと言いたかった。特に加藤。



「でもめすらしいね、女に無我夢中になっているお前の姿は。」



 ぽつりと零した加藤の一言に、橘少年の眉がぴくりと動く。



「・・・あの人は、特別だから。」



 そう言って、菓子パンの横に並んでいたカフェオレを口に含んだ。明らかに彼は、加藤から視線を背けていた。加藤のほうも、それを気にしている風ではなかったが。

「特別、かぁ。橘にも『特別な誰か』を作る日が来るとはね。中学から一緒だった俺から見たら、正直信じられないよ。」

「そうか?俺、自慢するつもりないけど、女とは相当付き合ってきたはずなんだがな。」

「非モテ男からすれば自慢以外の何物でもないが、橘って飽きっぽいじゃん。正直俺は『コイツ、ゲーム感覚で女変えてやがる』ってずっと思っていたけどな。」

「心外だな。これでも恋愛はプラトニックに考えるタイプなのに。」

 ――嘘だ、絶対嘘だ。

「・・・ごめん橘、それどこらへんを突っ込んでいいのか俺にはわかんない。」

「だーかーら、ネタじゃねーつってんだろうが。」

 これがネタではなかったら、目の前で言われた日には迷わずその小生意気な背中に足蹴りをかましていただろう。今は盗み聞きをしているようなものなので何も言うことができないが、そろそろ時間的にも退場願いたいところだ。



「瀬名っち、何やってんのさコソコソと。覗き?」



 もうそろそろ私が中に入ってやろうとしてドアに手をかけた瞬間、元気のいい声で女子生徒に声をかけられた。一瞬ビクリと肩を震わせたが、私は冷静を装って後ろの生徒に返事をする。

「覗きじゃなくて、教室入るタイミングを見計らってただけ。橋本さんも今日は早くない?」

「優でいいってば。今日は学校が早く終わったから来てみただけ。入っていいんなら入るよ。」

 そう言って彼女は米一粒分の躊躇いもなく自習室に足を踏み入れた。しかたがないので、私も続く。



「おお!?噂の橘君じゃね?瀬名っちにフラれたって本当?」

「瀬名っちって・・・・・・。」

 流石の橘少年も閉口するほどの傍若無人ぶりだった。意識していないだけかもしれないが、当人二人が居る事に微塵のプレッシャーも感じていない。

「優のこと知らないの?ダメじゃん加藤、ちゃんと紹介してくんなきゃ。」

「・・・なんで俺が、わざわざ橋本の事紹介する義理があるわけ?」



「クラスメイトだから。」



 ここまではっきりと言い切られると、寧ろ清清しささえ感じてしまう。だが優ちゃんの暴走は、誰かが止めない限り永遠に続く事を私はクラス担当になった短い間に学習していた。

「あー、ハイハイ!!優ちゃんは机に座らず、ちゃんと早く来た分予習でもやっておく!加藤、菓子パンは教室の外で食べてきなさい!・・・橘君はちゃんと自分の教室に帰るように。もうすぐここ使うから。」

 パンパンと手を鳴らして、私は生徒たちに指示をする。男子二人組は廊下に出ようとゆっくりと席を立った。



「・・・何だかここのクラス仲よさそうですね。」

「まぁ、それだけがとりえだからね。」

 何気ない橘少年の一言に、私はあっさりと言い切る。正直な話、このクラス素行は良くないわ成績は並だわで、人に自慢出来そうな部分はクラスの団結力しかなかった。願わくは、その団結力が受験勉強に生かされて欲しいものである。



「羨ましいですよ・・・本当に。」



 橘少年は自嘲気味に笑いながら、教室を出て行った。私はこの後、彼の自嘲的な笑みに何を含んでいたのかを知らされる事になるのだが、それはもう少し先の話であった。




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