「なんでこんな事になるんだろう・・・。」

 次の日の昼休み、屋上へ続く階段を登りながら私は一人言を漏らしていた。昨日の夕方殆ど面識のない生徒から何故か告白され、考える暇もないまま屋上へ呼び出されている。これがイジメやカツアゲの類なら私は迷わず職場に訴えるのだが、事情が事情だけに誰かに相談する事も出来なかった。

 生徒との恋愛沙汰――上司からは禁止だと釘を打たれ、一番親しい先輩は失意の中。このような状態でどうやって相談しろと言うのだろうか。

 とりあえず、自分の意見をぶつけるしかない。恋愛偏差値では向こうが上でも人生経験値はこちらの方が上である。

 私は頭を切り替えて、屋上のドアを開ける。思った通り、目の前の手すり付近に私に告白した奇天烈な生徒――橘少年が佇んでいた。

「思ったより早いですね、これなら昼飯は食べられそうだ。」

「・・・昼飯ヌキの予定だったのか・・・。」

「飯より先生の方が大事ですから。」

 歯が浮くような台詞を平然と言い放った。これがモテ系の技というものなのだろうか。



「あー、橘君。昨日の話なんだけど。」

 私は早速本題に入った。自分の意思が揺れないうちに。

「気が早いですね、なんでしょうか?」

 彼はこちらに向いて柔らかに微笑む。一瞬、意思がぐらついたが、ここで折れるわけにもいかない。



「私達付き合うのは無理だと思う。まぁ・・・講師と生徒だし、ね。」



 なるべく少年を傷つけないようにオブラートに包んだ表現をしたつもりだったが、そんなありきたりな台詞で説得されるほど彼も甘くなかった。

「どうしてですか?俺、つい先日までここの講師の先生と付き合っていましたけど。」

 決して私の事ではないのだが、事実が痛い。いや本当に。

「そりゃ大久保先生は大丈夫かもしれなかったけど、私はダメなの。」

「彼女がOKなのに瀬名先生がNGだという根拠が分かりません。違いって何ですか?」

 橘少年は鋭く突っ込んでくる。コイツ、将来有望な弁護士になるんじゃないだろうか。

 しかしやはり、おざなりの言葉では彼を納得させることは不可能のようである。こちらの本音を言わない限り、少年は引き下がらないだろう。何故ここまで食い下がるのかは分からないけれども。

 私は覚悟を決めて、一呼吸置いた後口を開いた。



「講師と生徒では無理なのよ、君が私のクライアントである限り。」



 橘君の表情が失われていく。小池主任と話していた時に見せていた『業務用の顔』とでも表現したらいいのだろうか。私と会話している時は、それでも幾分か違う表情を見せてくれてはいたのだが。

 大人の事情を理解できない年代である事はわかっている。それでも私は続けた。



「予備校に通っているという事は、私達講師と君達生徒や保護者の間に必ず契約というものが存在しているのね。平たく言えば、私達が『教育』というサービスを提供するので君達はそれに見合った代価を支払ってくださいねって事なんだけど、そのサービスの中に『恋愛』という要素は含まれていないんだわ。」

 彼にとっては残酷な現実なのだろう。「仕事」という概念がはっきりと分からない生徒に理解しろというのは酷な話かもしれないが、あえて私は話を止めない。

「勿論保護者は講師と生徒の間に恋愛関係が出来るという事を了承した上で契約している訳ではないから、この『恋愛』は契約者にとって想定外の事になる。これだとやはり予備校側としては契約違反になる可能性もあるから、講師と生徒の恋愛は基本的にはタブーなの。」

 一通り話し終わった後、私は無表情のまま立ち尽くしている少年を見据えた。



「だから私は、今の君を恋愛の対象には見られない。」



 決定的な一言だった。まだ夢を見たい年齢の少年には鋭すぎる言葉だが、後で現実を知り精神どころか可能性までもズタズタに引き裂かれるよりはずっといい。たとえ傷ついて恨まれたとしても・・・と、私は思っていた。だがしかし。



「思った通りだ。俺はこういう女が欲しかった。」



 一転、橘少年は笑みさえ浮かべ、不吉な言葉を口走った。

「瀬名先生、今まで俺は何人かの先生と付き合ってきたけれど、年下の俺に向かって『大人の事情』を正直に話してくれたのは貴女だけです。みんなうわべで言葉を繕って、本音を話してはくれなかった。・・・大久保先生もね。」

 そりゃあそうだろう、オトナの気持ちとしては生徒を傷つけたくないのだから。

「それで結局俺を説得しきれずに彼氏彼女の仲になるんだけど、そうなると皆普通の女に成り下がってしまうんですよ。興醒めしますね。」

 そう言って、持っていた紙パックのジュースに口をつける。一方、彼の余裕のある態度に閉口しかけた私だが、彼に論破される訳にもいかないのであえて口を挟む。



「興醒めって、橘君の女の好みってどんなのよ?」

「俺、あまり女性の好みとか決めてないですよ?ただ、尽くすと言いながら自分に寄生してくる女は鬱陶しいし、自立と言いながら自分自身の都合しか考えない女は疲れるだけで。あまり選り好みはしていないつもりなんですけど。」



 ――それのどこが選り好みしてないんだ!?

 相手が生徒でないならば張り倒してやる所だが、なんとか私は理性でそれを押しとどめた。

「橘君・・・恋する女や現代女をめった斬りだね。それ、公の場では言うなよ。」

「ご心配には及ばずとも、そんなヘマはやりません。瀬名先生じゃあるまいし。」

 ――神様、今ここでこの男を蹴り倒してもいいですか?



「まぁ先生なら俺を偽らないと思っていましたしね。律儀にプロ根性捨てない所とか、それでも真っ当に生きようとして不器用に立ち回る所とか、俺は好きですよ。」



 この言葉を聞いて、思わず私はしばし呆けてしまった。こんな、褒めているのか貶しているのか分からないような告白を受けたのは始めてだ。彼はこの短い間に、認めたくはないが私の特性を的確に捉えていた。それだけ見られていたのだろう。

 しかしだからこそ、私は本音で答えなければならない。



「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、それでも私は橘君を生徒としてしか見ることは出来ないよ。」

「・・・そうですか。残念です。」

 どんなに想いを告げられても、生徒は生徒としてしか見ることは出来ない。仮に一年後予備校から卒業したとしても、その頃には彼のことだから私など忘れてしまうだろう。それでいいのだと、私は思う。

 ちょっと切ないセンチメンタリズムに浸っていた時、橘君の口からとんでもない提案が出された。



「だったら俺が志望校に合格したら、瀬名先生は俺を一人の男として認めてくれますか?」



 ちょっと待て、『一人の男』とはどういう意味で言っているのだ。それに志望校と言ったって、彼の頭なら大抵の名門大学には無理なく入れるはずだ。

 ――そういえば、この予備校のエースと言われる橘少年が現役落ちする志望校って、どこなのだろうか?



「心配しなくていいですよ。俺、先生と付き合う為だけで志望校を変えるつもりはありませんから。浪人した意味が無くなるしね。」

「・・・そういえば、伝説級の偏差値を持つ君を落とした志望校って、どんな所よ?」

 ずっと気にはなっていた。彼の頭ならこの国の最高峰の大学でも現役合格は出来たはずなのに。今まで機会がなかったから聞く事もなかったのだが。



「俺の志望校は、アンドルフ・ウェール医療国際大学です。」

「そっか、医療系は大変・・・・・・って、ええええええええええええええ!?」

「先生、声大きい。まぁ最初にこれ聞いた人は必ずそのリアクションするけど。」



 当たり前である。この少年が志望校として口にした大学は、本来なら大学生が入ることさえ難しいとされる、いわば『大学院生の大学』と呼ばれる学校なのである。

 ここ2、3年前の話になるが、国の最高学府であるはずの大学の学力低下に歯止めをかける為に、文部科学省は有力な外国大学の姉妹校を国内に誘致する政策を実施した。アンドルフ・ウェール医療国際大学もその一つで、元々はドイツにあった医療大学として名高い世界的名門校の、姉妹校である。しかし、大学のクオリティを損なわない為に入試も厳しくした結果、高校卒業程度の学力では到底ついていけず、かの大学に入学できた日本人は出来のいい大学院生か学を深めたい医学博士しか居ないのが現状だった。

 そんな場所に現役から入ろうとしたのだから、驚いて当然というもの。正直言って傍若無人もいいとこである。

「本気で言ってるの?それは。」

「本気ですよ、だからわざわざ浪人になったんじゃないですか。」

「一旦別の大学で知識つけてから、とか考えなかったの?」

 何気なく言った私の質問だったが、彼はまた無表情に戻って冷たく言い放った。



「・・・俺としては、少しでも早く力が欲しいんです。誰にも干渉されないほどの力がね。」



 私は時々、彼に恐怖を抱く事があった。今もそうだ。渇望している何かが、少年の中で黒く渦巻いているような錯覚を覚えた。

 ただ、何にせよこの生徒がやる気を出してくれるのはいい事だ。・・・私の事さえなければ。

「そっか、まぁ橘君ならどうにかなるかもしれないから、頑張ってみなさいな。私も陰ながら応援するから。」

「応援してくれるなら、結果を出した暁にはご褒美いただけますよね?」

 何時の間にか話が確定形に変わっている。これ以上変な約束をさせられない為には逃げるしかないと、今更ながらに気がついた。

「・・・まぁそれは考えておくから。それじゃあ私はそろそろ準備あるから職員センターに戻るわ。」

「明らかに逃げるつもりですか。まぁ今はそれでも構いませんけど・・・」

 全てはお見通し、とばかりに私を見てクスリと笑う。



「俺は欲しいものの為なら、手段は選びませんから覚悟してくださいね。」



 何だかとてつもなく不吉な言葉を聞いたような気がするが、私は聞かなかった事にしてその場を立ち去った。

 階段を駆け降りている途中、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っていた。




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