職員センターに帰ってきた時、先ほどの話題にものぼっていた大久保先生が鼻歌混じりで身支度をしていた。私はそそくさと自分のデスクに戻り、彼女に声をかけてみる。

「大久保先生、今日は早番ですか?何だか嬉しそうですが。」

「おかえりなさい先生。うふふ、やっぱりいつもと違う?」

「そうですね。急いでいるように見えて化粧直しだけはきっちりやっているあたりなんて、特に。」

「まぁ。瀬名先生ったらチェックの厳しいこと。」

 今日は何か特別なのかと聞いて欲しいが如く楽しげにデスクを片付ける先輩に対して、主任から聞かされた噂について尋ねるのに躊躇した。興味はあるがプライベートに関わる話でもあるし、憶測に過ぎない可能性もあるからだ。私は、世間話を装ってさりげなく聞いてみる事にした。



「さっき廊下で、かの有名な橘君に会いましたよ。とんでもない伝説話を聞いていたもので架空人物かと考えていましたが、実在したんですね。」



 大久保先生は浮かれ調子で身支度をしていた手を止め、振り向いて私を見た。少々迫力には欠けるが、睨んだと言ったほうが正しいかもしれない。

「橘君ってスゴイのよ!?出身校がまず全国的に進学校として名高い駿府台一校だし、その中でも常に上位30番以内をキープ、偏差値なんて全国模試で80を取ったことだってあるんだから!!・・・去年度は志望校を妥協できなくて浪人になっちゃったけど。」

 そういう異常な話を聞かされるから、嘘臭いと思っていたのである。ただ私立駿府台第一高等学校(略して駿府台一校)が全国区で有名な名門校なのは事実だし、その中であれだけの成績を残しているという事は実際頭も相当良いのだろう。全国模試の偏差値80というくだりは、常識から考えてかなり怪しい話ではあるが。



 ――しかし何故、彼女はこうも力説するのだろうか。もしかして・・・・・・。



 私があらぬ考えを持ち始めた時、目の前の先輩から声をかけられた。

「・・・先生?大丈夫??」

「ああいえ、大丈夫です。橘君は先生の担当されている生徒さんですものね。気を悪くされたのなら申し訳ありませんでした。」

「ううん、私もちょっとむきになりすぎたみたい。じゃあこれから帰るから、お先するね。お疲れ様です。」

 そう言って大久保先生は皆に挨拶した後、足早に職員センターを出て行った。私は次の講義のための準備に取りかかる。

 あの時の彼女は、確かに幸せそうに見えた。



 数日後の夕暮れ時ことである。私は涙で目を赤く腫らせた大久保先生と会った。

 2階の隅にある自動販売機コーナーで彼女は声を殺していた。人通りが少ない時間帯と場所とはいえ、大人の女が公然と泣いているのは尋常な事ではない。声をかけるのも躊躇われたので、見ないフリして缶ジュースを買って帰る予定だった。

「・・・瀬名先生・・・?」

 意外にも向こうから声をかけてきた。仕方がないので私は大久保先生を外部から庇うような位置にまわった。

「大丈夫ですか?・・・とりあえず涙を拭いてください。」

 そう言って私は自分のハンカチを差し出す。

「ありがと。・・・でも、大丈夫だから。心配ないから。」

 彼女は切れ切れの返事を繰り返す。言葉とは裏腹に『助けてください』というシグナルが普段鈍感な私にも伝わってきた。

「大丈夫だと言う人ほど本当は大丈夫ではないんです。何があったのか、もし私で良ければ聞きますよ?」

 我ながら傲慢な言葉だと思うが、今の私にはこれくらいしか出来なかった。しばらく彼女は黙ったまま俯いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。



「本当に大したことじゃないの。・・・・・・彼氏に、フラれただけ。」



 ――しまった、地雷だったか!?

 私は内心焦りまくっていた。大体の悩みならば職場では逆だけど人生の先輩として、客観的な意見を述べることも出来ようが、恋愛沙汰に関してはよほど深い関係者でない限り下手な事は言えない。今の状態の大久保先生に根掘り葉掘り聞くわけにもいかないし。

 だが、少ない男性経験ながらも捨てられた女性の気持ちくらいは分かる。私だって、向こうの一方的な事情で別れを余儀なくされた女の一人だった。

 ――やめよう。こんな時に過去の恋愛でブルーになってどうするよ?

 とりあえずは、自分のノスタルジアに浸るよりも目の前の先輩を慰める事が先決である。

「馬鹿な男ですね。こんなに才色兼備ないい女と別れるだなんて。」

「あはは・・・気を使わなくてもいいよ。」

「私はおべっかは言わない主義です。先生、もっと自分に自信持ってください。」

 もっと気の聞いた言葉があるだろうが、私にはこれが精一杯だった。

「・・・瀬名先生って、やっぱりいい人だね。」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。だってみんな見て見ぬフリしていくのに、先生は励まそうとしてくれているじゃない。」

 正直言うと私も見ないフリしようとして大久保先生に捕まっただけなのだが、彼女が良いように解釈してそれで気が紛れるのならそれでもいいだろう。私は泣きじゃくる彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でた。もともと小柄な女性だったが、今はもっと小さく感じる。

「・・・瀬名先生、我侭言っていい・・・?」

「なんでしょうか?」

「10分だけ胸貸してくれる?泣くだけ泣いて、10分後には普通に戻るから。」

 私は軽く頷き、泣きじゃくる先輩の頭を10分間撫でていた。



 言葉通り、次の日には大久保先生はいつも通りに戻っているように見えた。ただ事情を知っているだけに、私にはやはり彼女の笑顔が泣くように笑っているようにしか感じられなかった。やはり相当ダメージが大きかったのだろう。

 彼女が心配ではあるものの、私もこの予備校の職員である限り仕事をこなさなければならない。今日はあと1時間後に第二自習室で補習ゼミをしなくてはならないので、事前の用意のためにそこへ向かった。



 未使用のはずの第二自習室には先客が居た。数日前見かけた、橘少年だった。



「ごめん橘君、あと一時間後にここ使うから場所移動してくれないかな?」

 集中して勉強しているようだから声をかけるのをためらったが、こっちも仕事なのである。申し訳ないが退散してもらわなければならない。

「あと1時間あるんですよね?10分前には退出しますよ。」

「いや私もあんまり勉強の邪魔はしたくないんだけど、用意とかあるから。」

 心底すまなそうに私が答えると、彼はちらりと私を一瞥した後言葉を続けた。



「・・・まぁいいです。今日はずっと先生が来るのを待っていただけだから。」



「私を待つ?何のために?」

「やはり忘れていましたか。数日前言ったでしょう?相談したい事があるって。」

「・・・ああ、それかぁ!」

 相手にはすこぶる失礼な話だが、本当に私は今思い出した。ここ何日か仕事の研修やら大久保先生の失恋騒動やらで忙しかったのである。



『ここだけの話だけど、大久保先生ね・・・ある生徒と恋愛関係だって噂がありまして。』

『橘君ってスゴイのよ!?』



 ――ああ!!そういえば!!

 私の頭のなかで、主任と大久保先生の言葉が交互にリピートする。彼女はある男子生徒と付き合っているという噂があった。それで数日前の彼女の言動から察するに、噂が事実なら相手がこの橘君である可能性は有りうる話である。言葉が悪いが、大久保先生はこの少年に少なからず心酔している節はあった。

 少し、興味が湧いた。もし彼女の元彼なら、言ってやりたい事だってあった。

「・・・ごめん橘君、ちょっと質問いい?」

 私は彼との距離を少し詰めた。さすがに大声で言う話題ではないからだ。橘少年はシャープペンシルを動かす手を止め、私を見据えた。



「不躾な質問で申し訳ないんだけど、昨日まで大久保先生と付き合っていた生徒ってあなたでしょう?」



 私はダメもとで尋ねたのだが、答えはあっさりと返ってきた。

「そうですよ。何だかんだ言っても、職員の情報網ってすごいんですね。もう先生の耳にまで入っているとは。」

「これは大久保先生から直接聞いた訳じゃなくて、私の憶測に過ぎないよ。受験勉強も大事だけど、でももう少し恋人との別れ方ってのを勉強した方がいいんじゃないの?」

「・・・どういう事ですか?」

「女を泣かせるような別れ方はするなって事。いくら大人の女だって、中身は結構脆いもんなんだから。」



 私は感情を吐露するのを抑えるのに一生懸命だったが、本来うろたえるべき立場である彼は涼しい顔をして私の抗議を聞いていた。一通り私の話を聞き終わった後、橘少年は考える風にしながら私に問い掛けてきた。



「大久保先生は、俺と別れた理由を瀬名先生に話したんですか?」

「いや、それは聞いてない。というか、聞けるような状況じゃなかった。」

「・・・そうですか。」

 私の言葉を聞いて、ようやく少年は理解したような表情を見せた。



「成る程、皮肉なものですね。大久保先生と別れた理由は、瀬名先生だっていうのに。」



 ――はぁ!?何言ってやがるこのガキは!!

 私は今さっき彼から聞くまでは大久保先生と付き合っていたなんて知らなかったし、第一私は、まだこの予備校の正社員として働き出してお給料さえもらってないのだ。人の恋愛に首を突っ込んでいる暇など勿論なかった。なのに何故――?!

 私が不満そうにしているのがわかったのか、一呼吸置いてから少年が言葉を続ける。

「瀬名先生が直接何かやった訳ではありません。言うなれば俺の気持ちの問題ですから。」

 そう言って、橘少年は私に近づいてきた。真横に並ぶちょっと前で、私の耳元に顔を近づける。



「ずっと探していたんですよ、貴女のような人を。」



 ぞっとする程、艶を帯びた声だった。



「先生、俺と付き合ってみませんか?」



 ――どういう事!?

 私の中は歓喜とか恋慕とかという感情ではなく、まず動揺が全身を埋め尽くした。

 意味が分からない。どうして数日前にはじめて会ったような生徒から告白など受けるのか。彼は何を基準にして私のような人物を『探していた』のか。それに・・・・・・



『先生に限って、モラルの枠を踏み外す事はありませんよね?』



 主任の言葉が走馬灯のように巡る。そうだ、私は講師なのだ。そして、相手は生徒だ。私は何を躊躇している?

 私が何か口に出そうとした時、何時の間にか私の横を通り過ぎ、ドア付近まで移動していた橘君が切り出した。

「返事は今日とは言いませんよ。明日の昼休み、屋上で待ってますから。」

 彼はそう告げると、教室を出て行ってしまった。私はただ、彼の後姿を見送ることしか出来なかった。




BACK/NEXT