桜の色も映り変わろうとしていた春の頃、この街に転居して始めての職場――中高校生向けの受験予備校BGCスクールの廊下の一端で、私は直属の上司と仕事内容について雑談をまじえて立ち話をしていた。

「おはよう。確か始めまして・・・ではなかったよね？瀬名さんだっけ。」

　似た話はよく聞くが、この業界でも午後13時出勤で挨拶は「おはよう」と言うらしい。記憶が正しければ、今目の前にいる男性は採用面接の際に私と面接した責任者ではなかっただろうか。

「はい、確か私と面接して頂いた際に一度お会いしていますね。小池主任。」

　とても主任という肩書きが似合わない男だった。長めの茶髪に無精ヒゲ、だが決してルックスが悪いわけではなく、細身のジーンズにストライプのシャツと黒いジャケットがよく似合う、好みは分かれそうだがワイルドな雰囲気のイケメンであった。

　しかし教育関係者のセオリーとして、生徒はともかく保護者に警戒されるような風貌は好ましくないとされている。そんな彼が個人指導部主任というポストを手に入れているという事は、仕事はきっちり出来るタイプなのかもしれない。私は彼にそんな印象を持っていた。

「なんか表現硬いなー。主任なんて大したことしてないんだから、名前で呼んでよ。」

「大したことなくても何でも、主任は主任じゃないですか。大体フルネーム知らないし。」

「下の名前は将隆。覚えてくれる？」

「・・・すいません、知る必要のない情報でした。」

　実は私、主任は結構苦手なのである。 なんというか、仕事の話でもふざけて笑っているその神経が理解できないし、 あの笑顔の先に何かが潜んでいるような気がするからだ。

「瀬名さん冷たーい。・・・そういや、もう予備校内の空気には慣れた？」

「そうですね、皆さん優しく接して下さるし。特に大久保先生にはお世話になりっぱなしで。」

「まぁまぁ、彼女はもともと優しい人だし面倒見いいから、 分からない事あったら気軽に相談できると思うよ。」

　大久保先生というのは、私のデスクの隣にいつも座っている常勤講師である。 歳こそ下ではあるものの、彼女の学歴・指導への熱意とテクニック・保護者への受けの良さは自分のレベルを遥かに超えている。 そういう訳で新入りの私は何かと隣の先輩を頼ってしまっているのだが、彼女は嫌な顔も見せずに親切にしてくれていた。

　ただ一つだけ惜しむらくは、その女性らしい柔らかな物腰と保護欲を刺激するような可愛らしい顔立ちのおかげで女生徒のやっかみを買いやすく、表立ってはいないものの時に辛辣な噂を立てられたりしていた。幸か不幸か彼女の耳には届いていないようだが・・・。

「ただね、ちょっと見習って欲しくない部分もあるんですよ。」

　今まで軽薄に笑っていた主任の顔から、すっと笑みが消える。

「先生に限って、モラルの枠を踏み外す事はありませんよね？」

「・・・・・・は？」

　最初は、何を言われているのか分からなかった。

「ここだけの話だけど、大久保先生ね・・・ある生徒と恋愛関係だって噂がありまして。」

「・・・あ。」

「その反応からすると、どうやら思い当たる節があるみたいですね。」

　大久保先生から直接聞いた訳ではないので意地の悪い噂だとばかり思っていたが、彼女が特定の男子生徒と頻繁に会っているとか、その生徒だけに個人講義を引き受けているとか、確かに風の噂で聞いたことはある。尋問されそうな予感がして、私は無意識のうちに視線を逸らしていた。

「まぁ君から何かを聞こうとは思わないから安心して。だけど僕らは教育というサービスを生徒や保護者といった顧客――クライアントに提供しているという事を忘れないで欲しい。それが僕ら、講師の仕事だからね。」

　主任の表情が緩む。直接関わっていないとは言え、正直私は冷や水を浴びせられた気分だった。どうやら主任は私の思っている以上に仕事にはシビアらしい。

「彼氏が欲しかったら、プライベートで見つけなさいって事。俺なんてどうよ？」

「・・・その言葉、いい加減止めないと受付の田村さんあたりからセクハラって言われますよ。」

「あー、美紀ちゃん達もあることないこと吹き込んでくれちゃって。」

　『有る事有る事』の間違いである。小池主任の女遊びは職員センターでも有名な話で、実際この予備校の女性職員で口説かれた人も何人かいるようだった。私に至っては仕事始めの当日に、そんな先輩達から「小池主任の口説き文句は挨拶だと思え」と念押しされていたりする。

　だが、何故に主任まで私が彼氏ナシである事を知っているのだろうか？

　当てずっぽうならかなり失礼な話だと思うのだが。上司でなかったら足蹴りの一発でもかましてやりたい所である。

「私の出会いについて心配して下さるのなら、合コン誘ってくださいよ。主任、人脈広そうだし。」

「合コンねー。瀬名先生、あういう席では酒は控えめに飲んだほうがいいと思うよ？」

　――ちょっと待て。どうして私が大酒飲みで、日本酒を一升瓶単位で飲んで合コン失敗した事をあなたが知っている？

　ああ、これが上司でなかったら問い詰めてやれるのに！！

「お取り込みの所を失礼致します。」

　いろんな意味で緊張していた場に乱入してきたのは、一人の男子生徒だった。駿府台一校の校章をつけた制服を着ている。

「おおっ、橘。もう青本の過去問解けたのか？相変わらず早いなー。」

「もう現役生じゃありませんからね、油断しているとすぐ足元をすくわれます。」

「あはは、その意気その意気。と、お前なんで今日は制服なんだ？もう卒業したろ。」

「卒業証明証の関係で学校に行っていました。」

　主任と淡々と会話する橘君は、身長は175cmを超え（目算だが）、整った顔立ちに受験終わったばかりの時期にもう難関大学の過去問クラスの問題を解いているという秀才さも加わって、かなりハイスペックな少年だった。噂で名前は聞いていたが、ありえないと思っていたら実際に棲息していたらしい。

　予備校としても彼の存在はかなりの宣伝効果もあるし、生徒が客なら彼はいわゆるVIP客というところか。邪魔をしても悪いので、私は早めに退散することにした。

「では小池先生、私はお先に失礼します。ありがとうございました。」

「ああ、話の途中でごめんねー。瀬名先生。」

　くるりと向きを変えて職員センターに帰ろうとしていた時、意外にも橘少年から声をかけられた。

「瀬名先生、でしたよね？」

「あ、うん。私に何か用事があるの？」

「・・・ええ。また後日ご相談します。」

　この予備校に勤めて数日しか経ってない私にどんな相談をするのか知らないが、橘君は去っていく私に「約束ですよ」と念押しまでした後、笑顔で見送ってくれた。

　私はこの時、まだ橘少年の微笑の意味を考えもしなかった。