数時間前までひとりぼっちだった翡翠にとって、円卓を囲む多人数の食事は楽しいものであった。彼女にとって『家族との食事』というものは、記憶の彼方に置いてきたものだったからだ。

 そして、何といっても自分の抱える不安をひと時だけでも忘れることができた。

 和やかな食事が終わった後学生達は各々の部屋に戻っていったが、鴇人と千吉良、大人二人だけは台所で夕食の後片付けをしていた。

「翡翠様は何か悩んでおられるようでしたな。」

 洗い桶の中で泳いでいる皿たちを一つづつ洗いながら、千吉良が声をかける。

「……そうですね。彼女は抱えているものが多すぎる。」

 少し間をあけてから、鴇人は返答した。視線はテーブルの上にある台拭きに残したままだ。

「鴇人殿、何か翡翠様に指南でも?」

「指南なんて大げさなものではありませんよ、一つ警告をしただけです。」

 そう口から出したあと、鴇人は翡翠の顔を思い出した。あの時自分に向けられた、怯えた表情を。



「警告ですと?」

「ええ、彼女、『さくらの童唄』を憶えていました。」



 一瞬、広いダイニングの空間を沈黙が支配した。しばらくしたあと、千吉良が口を開く。

「……そうですか、やはり御前様は翡翠様に……。」

「詳しい事は何も聞いていないそうです。あのままですと彼女、無意識に『力』を使ってしまうかもしれません。」

「滅多なことを申されますな、いくら鴇人殿をいっても聞き捨てできませぬぞ。」

 鴇人が心ならずも作業の手を止めてしまうほど、千吉良の語調はいつになく強いものだった。

「すいません、そうならない為に僕達がいるのでしたね。」

「そうですとも。期待しておりますよ、唄守殿。」

 千吉良はそう言うと、また皿洗いの作業に戻る。



「そういえば、光秀君はお元気ですか?」



 カシャンッ

 はたと千吉良は手を止めた。手から放された、洗剤の泡のついた皿だけが床に落下して乾いた音をたてる。

「どうかしましたか!?」

 皿の割れた音を聞いて、台拭きを持ったまま鴇人が台所へ駆けつける。

「いえこちらの事で……光秀は九曜家に養子に出してから、何の連絡も取っておりません。」

「息子さんなのでしょう?心配ではないんですか?」

「『あれ』はもう九曜家の人間。私などが干渉するべきではないのです。」

 言い切った千吉良は、何事もなかったかのように床にある陶器の破片を拾いはじめた。その後、何も言わずただ自分を見つめる鴇人に対し、しびれを切らして破片を持ったまま立ち上がった。

「軽蔑して頂いて構いませんよ。私は人の親としては最低な人間ですから。」

「いえ、そうではなく、なんていうか……。」

 歯切れの悪い鴇人に対して、千吉良は再度問いかける。



「他に、何かあるでしょうか?」

「……ええ、やはり千吉良さんにはピンクの割烹着は無理があるのではと。」



 フリル付エプロンを着けた鴇人は、そう言って彼から目線を逸らしたのだった。




 一方、渦中にある翡翠は、館の敷地内にある中庭を歩いていた。頭の中で今日起こった様々な事象を思い巡らせながら、傍に咲いていた桜の花を見上げる。

 ふいに吹いた風が、一つの花を散らした。その花びらが、彼女の手の内に降りてくる。



『例え如何なる時であっても、指輪を外して童唄を唄ってはなりません。絶対に、です。』



 穏やかな鴇人とは思えない、強い言葉だった。それ故に、自分の持つ『別の自分』が怖かった。

 だが、それから逃れる術は今のところ無いらしい。ならば、どのようにしてそんな自分を受け入れればいいのか。彼女は、花びらを持つ手を強く握り締めた。

 翡翠はうつむいていた頭を上げる。すると、視線の先、丁度桜の木の下に渚の姿を捉えた。

「あんたねぇ、こんな時にまでストーカーを。」

「俺の役目は翡翠を守ることだ。」

 迷惑を通り越して呆れた翡翠であったが、当の本人はまったく悪びれた様子もなく無表情のままこちらを見ている。



「……滸(ほとり)という少年を、憶えているか……?」



 彼は無表情のまま彼女に言葉を投げかける。急なことで躊躇したが、翡翠は首を横に振った。

「……そうか。」

「ねぇ、その滸っていう人が私と何か関係あるの?」

 渚は顔を曇らせたが、翡翠に不満を言うでもなくぽつりと呟いた。



「滸というのは、翡翠を守るために死んだ男の名前だ。」



 ――えっ?

 翡翠は驚きで目を大きく見開いた。勿論、そんな話は聞いたことがない。

「知らない!!知らない、そんな話、誰からも聞いてない!!」

 さきほどの一言で動揺した翡翠は、力の限り首を振り続ける。

「……憶えていないなら、いい。今の言葉は忘れてくれ。」

「話振っておいてそんなの無理よ!!」

 ――私のせいで、死人まで出てたなんて。

 言葉にならない激情が翡翠を支配し、彼女の瞳から涙が零れ落ちる。話を切り出した渚は、どうしていいか分からない様子で唇を噛み締めていた。




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