国立の法学部を目指す俺、加藤剛は予備校BCGスクールの浪人生だ。成績はこれといって優秀でもないが、箸にも棒にもかからないという訳ではなく、中のほんの上というポジションで予備校では通っていた。 このような凡人の中の凡人であったはずの俺が、いろいろと騒動に巻き込まれるようになってしまったのは、ある親友の恋に起因する。
時は数日前に遡る。 神田という名前のお嬢様らしき人が無茶苦茶な要求を突きつけた日のことだった。動揺する俺達クラスメイトとは対照的に、橘は俺の前の席で冷淡な表情のまま携帯をいじっていた。 「おい橘、ちゃんとミーティングに参加しないとマズいって。」 俺は小声で注意を促す。教壇では瀬名先生が模試対策について説明している途中だった。例え、自分は蚊帳の外かもしれない話でも、事件の原因が話を聞かないのであれば巻き込まれた連中の神経を逆なでしかねない。 俺の注意が聞こえたのか、机に前のめりになる姿勢だった俺に耳打ちするように椅子を動かして、橘がぽつりと呟く。 「心配するな、手を打っただけだから。」 ――手? 俺は考え込む。橘の行動を全て把握できるほどエキセントリックな脳は持っていないが、一体あいつはどんな事をまたやらかしたのだろうか。 露骨に不安がる俺の表情を読み取ってか、橘は携帯の画面をそのままにして俺によこした。
内容:神田先生、どんな事をしても覆水は盆には返らないんですよ。』
俺は動揺のあまり携帯を取り落とす。その音が教室中に響きわたった。 「加藤ー、ずいぶんと余裕じゃない?」 「スイマセン、先生!これば別に何かあるわけじゃあ・・・」 俺を待っていたのは、クラスメイト全員の白い目だった。俺はすいませんと皆に謝ったあと、携帯を拾って大人しく席についたのであった。
呆れたように橘が言う。校内放送で先生が呼ばれ、自習となった時間帯に俺達二人はそそくさと教室を出て自動販売機コーナーにたむろしていた。 「そりゃ橘は器用だろうけどさ。でも橘、あの文はどう解釈しても喧嘩売っているようにしか見えないぞ?」 そういいつつ、俺は自動販売機に小銭を入れ、紙パックのミルクティーを購入する。 「相変わらずミルクティーか。女っぽいな。」 「うるさい。」 一方、橘はペットボトルでスポーツ飲料を買い、一口含む。
意表をついた橘の一言に、俺はむせ返った。 「橘、真顔で気色悪いこと言うのはやめてくれ!!」 息を整えながらも、力いっぱい否定する。 「そこまで言うか。まぁ男のお前にそういう系統の興味はないがな。」 「もしあったなら、俺はこの場で親友やめるぞ。」 内側から沸き起こった寒気に身震いする。俺は飲みかけのミルクティーをテーブルに置き、橘のほうを向いた。 「話を戻そう。あの煽っているとしか思えないメールって、一体どんな手なんだ?」 「誘い水だよ。」 間髪いれず橘は答える。しかし、その意味が分からなかった。 「どういうことだ?」 「あの先生、元々は油断できないくらい賢いが、めっぽう短気なんだよ。頭に血が上りすぎると何も考えられないタイプ。」 「それって思い切り地雷じゃないか・・・。」 「だからわざと地雷を誘発したんだよ。」 平然としたまま橘が答える。
「・・・あ!!」
「もしかしてお前、こちらの作戦を読まれまいと相手の視野を狭めるために?」 「それもある。後、向こうは最後には絶対に『神田塾』に頼ってくるからな。どうせなら最初からリーサルウェポンは出してもらった方が手を打ちやすいだろ?」 そう言って、橘はペットボトルの蓋を閉める。
「もう少し、俺達を信用してくれてもいいんじゃないか?」 橘には悪い癖がある。さっきのように、全てを自分だけで解決しようとするのもその一つだ。何でも処理できてしまう能力を持ってしまった者は、他人を頼るという事の大切さが分からないのかもしれない。
痛い事実を突かれ、俺は閉口してしまう。橘は飲み物の入ったペットボトルを持ったまま、自習室に向かっていった。
俺達は文字通り橘に助けられた。だが、俺は以前の橘とは少し雰囲気が違うような気がしたのだ。あの他人を寄せ付けない橘が、うちのクラスメイトと談笑している。
橋本や村上がはしゃいでいる中、ふいに後ろから肩を叩かれた。思わずびくりと体を震わせる。 「どうした加藤、あんた今日は大人しいね。」 そこにはミックスネクターを手にした瀬名先生が、少し不安げな様子で俺を見ていた。 「何でもないですよ、考え事をしていただけ。先生こそ、橘からミックスネクター取り返したんですか?」 「新しく買った。もしかして加藤、今回の成績で責任感じてる?」 そうかもしれない。俺達は結局、橘の助けなしではあの女性には勝てなかったのだから。俺達が賭けに勝ったにも関わらず、俺はなんとなくはれない霧の中にいるようだった。 「・・・まぁ俺だけですから、成績落ちたの。」 精一杯ごまかし笑いをしてその場を切り抜けようとした。だが、相手は予備校とはいえ教職のスペシャリスト。俺がかなう相手ではなかった。 いきなり先生は俺の肩を抱え込んだ。たまらず俺は抗議の声をあげる。 「痛っ、何するんですか?!」 「バーカ。まだ受験のはじまりに一回伸び悩んだからって落ち込んでどうする?次に取り返せば済む話じゃないか。」 先生は俺の顔を見上げてニヤリと笑う。視線がぶつかり、一瞬どきまぎしてしまう。
「気にするな、加藤。今回はお前の実力が伴わなかった訳じゃないんだから。」 そこには、晴れやかな笑顔のままで俺の腕を力一杯握り締める橘の姿があった。
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